おはようございます。
さて、過去5回「如来の悲しみ」というテーマでお話しさせていただきましたが、今回で最終回となりました。
仏教では、人間を「迷いの存在」だと教えられますが、迷いといっても意識や心のことではありません。意識であれば迷っている時と迷っていない時がありま すが、迷っていないと思っている時も迷っていると言われるのです。人間が迷っているのではなく、迷っているものを人間と呼ばれています。
その迷いの相(すがた)として、最たるものの一つに、食べること以外で、大量に他の命を奪っているということがあります。他の生き物にはないことです。
20世紀は「戦争の世紀」とも呼ばれましたが、21世紀になっても世界中で殺し合いが続いています。私たち人間は、誰も殺し合いをしたくて戦争をしてい るのではないのです。自分の国、民族、宗教、家族などを守る為に「良かれ」と思って戦争をしているのです。正義の為に戦っているのです。ある意味では、自 分の周りのいのちが大事だからこそ、殺し合いをしているとも言えます。しかし、それによって殺された人、あるいはその家族は、どうしようもない悲しみに暮 れ、殺した人も、人を殺した体験から、その後の人生に暗い影を落としています。いわゆる心的外傷後ストレス障害(PTSD)と言われますが、戦争の場面が 何かの拍子でフラッシュバックし、幻覚に襲われたりするものですから、日常生活がまともに送れなくなる方が後を絶たないと聞いています。その苦しみから、 自ら命を絶つ帰還兵も少なくないそうです。
環境問題にしても、9月に鳩山首相が「温室効果ガス25%削減」という目標を世界にアピールして話題になりましたが、評価する声もある一方、国内からは 「そんなことをしたら日本の経済はどうなる」という声も聞こえ、他の国においても目の前の経済優先で問題を先送りにされている感も否めません。しかし、目 の前の国益を求めるあまり、皮肉にもその国の土台になっている地球の方がもはや崩壊寸前になっているようです。
人間の理性、知恵を信頼してやってきましたが、その人間の理性、知恵こそが闇を抱えているのです。人間の幸せの為にとやっているはずのことが、結果的に人間を苦しめています。
その迷いの人間の理性、知恵の闇を悲しみ、「念仏申してくれ」と呼びかけておられるのが阿弥陀如来です。それは如来の悲願と言われます。徹底して私たち 人間のありようを悲しみ、捨てないで呼びかけておられるのです。そのありようを親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身」「出離の縁あることなき身」と言 われ、人間の努力では救いが成り立たないことを表現されています。
真宗再興の祖と言われた蓮如上人は「南無阿弥陀仏のいわれを聞け」と教えられましたが、その言葉は、念仏を申さねばならない理由が私たちの側にあること を物語っています。我々は、まず「念仏をしたら、どうなりますか?」ということを聞こうとしますが、「なぜ念仏申さねばならないのか」ということが大事な のです。
念仏をすることは、口に「南無阿弥陀仏」と称えることでありますが、仏さまの呼び声を「聞く」ことだとも教えられます。その呼び声の中に自らを見い出した時に、「往生」すなわち「生まれ続ける」人生が始まるのです。