おはようございます。今週から6回にわたりまして「東本願寺の時間」を担当させていただきます荒山です。どうぞ宜しくお願いいたします。この6回を通して、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要のテーマであります、「今、いのちがあなたを生きている」をテーマとしてお話させていただきます。
「今、いのちがあなたを生きている」ちょっと聞きますと「おや?」と不思議に思う言葉ではないでしょうか。「が」と「を」が逆じゃないか、そう思われた方もおいでになるでしょう。正直私自身も初めはそう思いました。つまり「今、あなたがいのちを生きている」というのであれば納得できますが、そうじゃなく「今、いのちがあなたを生きている」という言葉なんですね。不思議な言葉です。そこでやはりこのテーマの「いのち」という言葉が気になります。私が普通イメージする「いのち」は、生物学的な「いのち」です。つまり限りある「いのち」です。生まれ、死んでいく「いのち」です。このテーマの中でいわれる「いのち」ははたして生まれ死んでゆく「いのち」なのでしょうか。そうではなく、遥か昔より、時代をこえて、国境をこえて、文化をこえて、言葉をこえて、大切に「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」とお念仏申し、仏様の教えをわが身に聞いてこられた方々がおられました。その数えきれないぐらいの方々が生きてこられた、その永い永い歴史を「いのち」と教えてくださっているのではないでしょうか。
親鸞聖人はその「いのち」を無量寿とおっしゃいます。それは、あなたがたとえ、どういうあなたであっても、あなたを見捨てない。いかなる現実の中に生きようとも、その現実に意味を見出し、その現実を歩ませようという南無阿弥陀仏のいのちです。
私自身、今も忘れられない事として心に刻まれている事があります。10年程前でした。ある、お寺でお話をさせていただいておりました時、前の方にご婦人がお二人座っておられました。見たところお二人は、お母さんと娘さんという感じでした。そのお二人は、私が話をしております間中、ずぅーっと、おしゃべりをしておられました。さすがに私も気になりましてお二人に、「お静かに、私語は慎んで下さい」と注意をしました。そしたら「スミマセン」と、申し訳なさそうに、席を移動されました。それでお話が終わり、控室へもどって、そのお寺のご住職に、そのお二人の事を伝えたところ、ご住職がおっしゃるには「はじめに、言わなければならなかったですね。あのお二人は、実は日本の方ではなく中国の方なんです。それでお母さんに娘さんが通訳しながら聞いてみえるんです。だから一生懸命聞いておられるんですよ」思わぬ言葉が返ってきました。それを聞いた私は背中に冷や汗がどっと流れました。どうして大勢の人の前で注意する前に一言「何をそんなにお話しておられるんですか」と尋ねなかったのか、その後悔は10年経った今でも残っています。尋ねなかったのは、人の話を聞く時には、静かに聞くべきだ、それができない人は、非常識だと思い込んでいたからです。相手の事を自分の先入観でわかったつもり、知っているつもりになって決めつける。決めつけるだけで終わらず排除する。それがいかに、傲慢な姿か、その事実に頭を下げるよりありませんでした。後日、その中国の方の所へお詫状を書きました。そうしたら「そのような事、気になさらないで下さい。それよりも親鸞聖人のお話をもっと聞きたいです。どうか私たちといっしょに親鸞聖人のお話聞いて下さい」というお返事をくださいました。私をたえず、ナンマンダブツの心へたち帰らせて下さる言葉として忘れられません。
「今、いのちがあなたを生きている」今日は、これで終わらせていただきます。