おはようございます。荒山です。「今、いのちがあなたを生きている」というテーマで、お話をさせていただいております。
少し唐突ですが、京都にございます東本願寺に同朋会館という建物があります。そこへは親鸞聖人に出遇おうと、全国から、大勢の方が、こられます。その同朋会館の食堂の壁に、「愛の反対語はなんでしょうか?」という言葉が張ってありました。ちなみに、今、ラジオをお聞きの皆様は、愛の反対語は、何だと思われますか?言葉の意味から考えますと、愛の反対語は憎しみですよね。しかし、そうじゃなくて、壁に張ってあった答えは、「無関心」でした。つまり、愛の反対語は、憎しみではなく無関心なんです。ご存知の方も、いらっしゃるでしょうが、この言葉は、マザーテレサという方の言葉です。何か“うーん”と頷かさせられます。愛も憎しみも相手の存在があってこその事です。言うまでもない事ですが、存在していない人に、愛や憎しみという深い感情をもつという事はありません。ですから、愛する時は、もちろん、憎む時でも相手の存在の意味は、大きく、確かなものです。たとえ相手が、どのような相手であれ、つながり合うという所に大事な意味があるように思うのです。しかし無関心の場合は、どうでしょう。そこには何の感情も意味もありません。相手の存在など必要ないのです。もっといえば、相手がそこに存在しても、その存在を消していくことにすらなります。少し面倒な事を申し上げるようですが、相手の存在を消していくということは、実は、この私の存在も消していくということになるのではないでしょうか?
ある大先輩に「仏法を聞いて、わが身が辛抱するということではないんです、相手の辛抱が見えてくるということなんです。相手のご苦労、相手の辛抱が、はっきりと見えてきた、これが仏法の功徳なんです」と教えていただいた事があります。他者の存在と向き合う事を通して、自分自身の存在の意味を明らかにする。いかなる“つながり方”であっても、その“つながり”の中で存在の意義を明らかにしていく、そういう「いのち」を生きてほしいと、現代という時代を生きている私たちが、仏様から願われているのではないでしょうか?
地球上で、飢餓に苦しんでいる人たちは、世界全体の約30%になるそうです。その理由として、自然破壊、環境破壊からくる大地の砂漠化が、その原因のかなりの要素になっています。さあ、そこで考えさせられるんですが、私たちの日々の生活が、その自然破壊の原因になっていないと、はたしていえるでしょうか。あるいは、戦争や差別で苦しんでいる人たちが世界中には大勢います。このような、苦悩の現実に生きる人たちの“悲しみ”あるいは“辛抱”がはたして、私の視野の中に入っているんでしょうか?そのことが「今、いのちがあなたを生きている」というテーマから問いかけられているんですね。他者の存在を通して、自分自身の存在の意義を明らかにしていく、また、そういう“つながり”の中で生きていこうとする時、初めて本当に豊かな人生がひらかれてくるのではないでしょうか。「今、私が、ここに」存在していることの大切な意味を“いのち”のつながりの中で確かめ続けてほしいと親鸞聖人は“ナンマンダブツ”の声を通して、呼びかけてくださっているのではないでしょうか?
今日は、これで終わらせていただきます。