ラジオ放送「東本願寺の時間」

荒山 信(愛知県 恵林寺)
第2話 「今、いのちがあなたを生きている」 [2009.12.]音声を聞く

おはようございます。荒山です。先回の放送の中で「南無阿弥陀仏のいのち」とか「ナンマンダブツのこころ」ということを申し上げました。そこで今回は、「南無阿弥陀仏」とは一体何か?お念仏とは私にとって何であるのか?そのことを、親鸞聖人に訪ねてまいりたいと思います。
ところで、唐突ですが、今、ラジオをお聞きの皆さまにとって「南無阿弥陀仏」とは何でしょうか?私も「お前にとってお念仏って何だ」と聞かれますと答えにつまってしまいます。はっきりわからないけどお念仏申している。それが正直な気持ちです。しかし、「南無阿弥陀仏」の意味はよくわからないけど困った現実を縁として、あるいは、悲しみの場に身をおいたことを縁として「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」とお念仏が私の口から出てくださる。これが不思議です。私が出すんじゃなく、お念仏の方から出てくださるんですね。親鸞聖人は、お念仏を「如来回向」とおっしゃいます。「如来」とは阿弥陀様です。阿弥陀様とは、永い永い歴史を通して私の所に来て下さっている真実の願いです。「回向」とは、その阿弥陀様のおはたらきです。私の口から私の思いを越えて出てくださる「はたらき」です。もう一言申すならば「はたらき」とは呼びかけです。
ある先輩が「私にとってお念仏とは、お前それでいいか?という呼びかけの言葉です」と教えてくださったことがあります。親鸞聖人は、「念仏して地獄におちたりともさらに後悔すべからずそうろう」とおっしゃいます。つまり「念仏して地獄におちても私は後悔しない」といわれるのです。びっくりするような言葉です。そうではないですか?私達は、地獄におちないように、おちないようにと仏さまの教えを聞いているんですから。その「地獄におちても後悔しない」とおっしゃるのは、たとえ地獄におちても、その地獄で念仏申していこうということです。地獄で仏さまのよびかけを聞いていこうとおっしゃるのです。もっといえば地獄を仏さまの教えを聞く道場にしていこうといわれるのです。「わしは地獄になんか行きたくない」とはおっしゃらないんですね。つまり、極楽なら行きたいけど、地獄ならごめんだ、という、私の都合のいい心の道具に、お念仏を使ってはいけないということを、おっしゃるのです。
「地獄」ということを、申しましたが、親鸞聖人が敬っていかれた先生に源信僧都という方がいらっしゃいます。源信僧都は平安時代の方で比叡山の横川、今でいう奥比叡においでになりお念仏を大切に生きていかれたお方でした。その源信僧都は地獄という世界を「孤独」という言葉で示されます。何かとても考えさせられます。現代という時代社会は、「能力主義の時代社会」ともいえるのではないでしょうか。つまり能力があるか、能力がないかによって、その人が評価され選別されていくのです。能力といいましたが、間にあうか、間にあわないか、役にたつか、役にたたないかです。そして、それによって世間では、人の値打ちが決められるということもあるようです。間にあう人は認められますが、間にあわない人は見はなされていく社会です。ですから自分は、周りからどんな評価をされているのか、たえず周りのまなざしに縛られながら「いい人間、できる人間」で生きていかなければならないわけです。そういう社会の中で、いかに大勢の人が心に闇を抱えながら生活していることでしょう。闇と申しましたが、それを孤独というのでしょう。どういう自分であっても、自分という存在そのものを受け止め合える関係を生きたい、というのが、私たちのねがいなのではないでしょうか。
今日はこれで終わらせていただきます。

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