- 荒山 信(愛知県 恵林寺)
- 第3話 「今、いのちがあなたを生きている」 [2009.12.]
おはようございます。荒山です。今回も「念仏」というテーマでお話させていただきます。
先回の放送の中で、お念仏とは仏さまのはたらきです、ということを申しました。では「はたらく」とは、どういうことでしょうか?そのことを今回は、親鸞聖人に、たずねてまいりたいと思います。はたらきとは、「たとえば薬が作用する」という時の「作用」ということです。では、お念仏することによって、仏さまが私の中にどう作用してくださっているんでしょうか。親鸞聖人は、その作用を「正智」とおっしゃいます。「正智」とは、仏さまの正しい智慧ということです。仏さまの正しい智慧とは、事実を事実として正しく見ることができる眼です。そして事実を事実として生きようとする意欲です。ならば、仏さまの智慧と、人間の知恵は、どこが違うのでしょう。人間の知恵は、そこに必ず主観が入ります。つまり自己関心がまじります。ですから事実を事実として見ることができないんです。これを親鸞聖人は「邪見」とおっしゃいます。「邪見」とは「よこしまな見方」ということです。「よこしま」とは、物事をきちんと見ているようでも、必ず、そこに私の関心が混じるということです。
今でも忘れられないことがあります。私の娘が、まだ幼稚園に通っていたころ、幼稚園で学芸会がありました。私は、その様子をビデオに撮って、そのビデオを家へもって帰って、家族に「今日、学芸会のビデオを撮影してきたから、いっしょに見よう」といった時です。私の父が、「事実は正確に伝えなければいけないよ。学芸会を、写してきたんじゃなくて、学芸会で演技している自分の娘を一生懸命写してきたんじゃないのかね。よその子も、うちの子も、平等に撮影することができたならたいしたもんだよ」と言われたことが今でも耳の底に残っています。人間は、物事を、ありのままに見ることはできないんですね。必ずそこに自己関心が雑じるんです。しかも、やっかいなことに、“自分は見た”という心にとらわれ、その心を絶対化していくんです。それを親鸞聖人は「?慢」とおっしゃいます。親鸞聖人が顕された、お正信偈の中に出てまいります、「邪見?慢」です。見たら見たことに執われ、聞けば聞いたことに執われ、経験すれば経験したことに執われていく、そして、そのことを絶対化していく。たとえば、自分が経験した苦労に執われ、その経験を絶対化していきますと、今度は、苦労してない人を見下すということがあります。あるいは、「私の苦労に比べたら、あなたの苦労なんて大したことない」というように、随分、ごう慢な姿にもなります。
ある先輩が「自分は迷いをこえた、自分は迷いを卒業した、なにおか、いわんや、これが迷いの絶頂である」と聞かせてくださったことを思い出します。自分自身の執われの心が、人と関係させないんですね。もっとはっきり言えば、執われの心が、人と人とを対立させていくんです。ですから、考えてみれば、私も寺の住職をしていますが、一番やっかいな対立は、宗教と宗教の対立かもしれません。「仏説阿弥陀経」というお経があります。そこに、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という」という、お言葉が出てまいります。つまり、十万億もの仏土、仏土といいますのは、仏さまの世界です。十万億もの仏さまの世界に出遇わないと極楽には行けないんだということが説かれているんです。十万億ですよ、気の遠くなる数字です。つまり、執われの心を、限りなくやぶってもらう、やぶってもらうとは、邪見?慢の私の姿に気づかせてもらうということです。その終わりなき歩みを、お念仏によって、たまわるのです。
今日はこれで終わらせていただきます。