おはようございます。荒山です。「今、いのちがあなたを生きている」をテーマにお話させて頂きます。今回は『仏説観無量寿経』というお経のお話をさせて頂きます。
お経のお話と言われますと、“なんだか難しそうだな”とか、“ありがたーい文字や言葉がならんでいるんだろうなあ”とか思われるかも知れませんね。いずれにしても良い事が書かれているんだろうけど、私の生活には、あまり関係ないと思われるかもしれません。しかし、この『仏説観無量寿経』に説かれている内容はありがたい話ではなく、眠気がとんでしまうような人間の悲劇です。その悲劇の内容を少しお話させて頂きます。
マガダ国という国の王子阿闇世(あじゃせ)が父である国王、頻婆娑羅應(びんばしゃら)王を殺し、母である王妃、韋提希(いだいけ)を王宮の奥深くへ閉じ込めて、国王の座を奪います。それを、そそのかしたのはお釈迦様の従兄弟で、弟子でもある提婆(だいば)でした。今日の言葉で言えばクーデターですね。そういう大変な事件がお経に説かれています。その事件を通して親子、夫婦、師弟という人間関係がズタズタになっていきます。
その悲劇の中で韋提希はお釈迦様に出遇います。というよりも、その悲劇が韋提希をお釈迦様に出遇わせたといった方が正確かもしれません。そこで韋提希は、恨み、つらみ、愚痴をお釈迦様にぶつけます。実の息子に裏切られ、お釈迦様の弟子にひどい仕打ちを受けたこの私は、誰よりも不幸な人間ですと、その怒りのほこ先は、お釈迦様にも向けられ、お釈迦様を責めるのです。しかし、お釈迦様は反論もせず、叱ったり、諭すこともなさらず、ただ黙って静かに韋提希の苦しみを、全身で受け止めていらっしゃいました。そのお姿に韋提希の心が変化していきます。そして苦しみから逃げ出したいと思っていた韋提希が、そうではなく、苦しみを大事な縁として、阿弥陀様の教えを間いていこうとするのです。つまり、それまで外向きだった眼(まなこ)が方向転換され内へ向くのです。そして、どういう出来事の中に身を置いたとしても、その出来事を通して、“私が、今、ここに”存在していることの意味を明らかにしたいという願いが韋提希の中に発(おこ)ってくるのです。それは、韋提希が発そうとした願いではなく、お釈迦様と出遇って発ってきた願いなのです。その願いを“南無阿弥陀仏のいのち”と親鸞聖人は、おっしゃっています。そしてやがて韋提希は「未来の世を生きるすべての人々」のために教えを説いてほしいとお釈迦様にお願いするのです。初めは自分だけの救いを願っていた韋提希が、です。もちろん、未来の人々の中には、息子の阿闇世や提婆も含まれます。それは自分自身も、阿闇世も提婆も共に「凡夫」として仏様から願われている存在であったということに韋提希が、深く気づかさせられたのでしょう。そして、その事実に頭が下ったのです。
「凡夫」とは縁によって生きる者であると親鸞聖人は教えて下さっています。「縁」とは条件です。つまり条件次第で何をしでかすかわからない者を「凡夫」といいます。人間は、自分の“意思”だけに従って生きていけるのであれば、それぐらい楽なことはありません。しかし、穏やかに生活したいと思っていても、腹がたつ条件がととのえば、いつでも自分の意思とは関係なく腹がたちます。それによって平気で人を傷つけるということもあります。人間は「凡夫」として生きている。その一点において平等なのであります。そのことにうなずけてこそ、私たちは明るい世界を生きていくことが、できるのです。その「凡夫」を悲しみ、支えきろうとしている大地を、“南無阿弥陀仏のいのち”と親鸞聖人は教えて下さっているのではないでしょうか。
今日はこれで終わらせて頂きます。