ラジオ放送「東本願寺の時間」

荒山 信(愛知県 恵林寺)
第6話 「今、いのちがあなたを生きている」 [2010.1.]音声を聞く

おはようございます。荒山です。「今、いのちがあなたを生きている」をテーマにお話させていただきます。
親鸞聖人は縁によって生きる者を「凡夫」と教えて下さっています。「縁」とは条件です。つまり条件次第で何をしでかすかわからない者を「凡夫」といいます。そして自らがその「凡夫」であることに深く気づいたものを親鸞聖人は「悪人」とおっしゃいます。また、自分の意志に従って、どのようにも生きていけると思っているものを「善人」とおっしゃいます。そして南無阿弥陀仏のいのちは「悪人」の大地となり、悪人こそ支えきろうとしてくださるのだと親鸞聖人は教えて下さっています。
私自身、忘れられないことがあります。それは私が親しくさせていただいている中学校の先生から、お聞きしたことです。不登校の生徒さんが、家族から言われて一番辛くなる言葉は、一番は「がんばれ」、二番は「気にするな」、三番は「強くなれ」だそうです。つまり元気になってもらおうと、こちらが良かれと善意で言ったことが相手を逆に追いつめていく言葉になるんだそうです。私はその話を聞いた時、本当にドキッとしました。つまり、身におぼえがあるからです。子どもが学校で何かあって落ちこんで帰ってきた時に「がんばれ、気にするな、強くなれ」と言ってきたからです。それは、私自身、人間は自分の意志でどのようにでも生きていけるという答をもっていたからです。まさしく「善人」の姿です。その答を子どもにおしつけていくのです。親は善意でしているつもりでも、子どもからすれば「善魔」になるのでしょう。善魔とは善悪の「善」に悪魔の「魔」です。悪魔ではなく善魔です。
ある先輩は、「今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった」とおっしゃっていました。確かに「がんばれ」という言葉は、力のある言葉であり、ある意味、万能な言葉です。病人を見舞いに行くときなども「がんばって下さい」と励ますことがあります。しかし、人間は条件次第で、いくらがんばろうとしても、がんばれない時もあります。少し変な言い方をするようですが、「がんばれないあなたを大切にしたい」あるいは「ちっとも強くなれない、あなたといっしょに生きていきたい」という言葉を案外、子どもは待っているのかもしれません。つまりこちらが「善意」で相手に関わろうとする時があぶないんです。なぜならば、人間は悪意でしたことならば反省できるということもありますが、善意でしている時の、その自分自身は、なかなか反省ができないからです。
ある研修会がひらかれた時でした。最後に、講師の先生にお礼をお渡しする時「先生、本当にお礼が些少で申しわけありません」と言ったその時です。先生に「いらんこと言わんでもいい、それが善人の言葉なんです。わたくしは精一杯のお礼を頂いたと思っております」と、これも忘れられない言葉です。へりくだったり、謙遜するという形で、実は自分をたてているんです。それで結局は、相手を信頼してないんです。わが身の姿を、その先生に見すかされたようで本当に恥ずかしくなりました。と同時に、私のことを、私以上に、私よりも深く知って下さっている世界があるんだというおどろきがありました。その世界を“南無阿弥陀仏のいのち”というのでありましょう。自分一人では自分のことはわかりません。人とのかかわりあい、つながりの中で自分が見えてくるのです。凡夫の大地になろうと、南無阿弥陀仏のいのちは、歴史を越え、文化を越え、ことばを越え、私の中にはたらき、願いかけてくださっているのです。
皆さまには、お聞きいただきまして、本当にありがとうございました。これで終わらせていただきます。

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