みなさんおはようございます。心地よいお目覚めができましたか。
今日もいただいたいのちを大切にして希望の一日を生きたいものです。
先日近所の若いご夫婦が正月の初参りに神社にお参りして、「おみくじ」を引いたときの話です。
昨年は幸いにして二人目の子どもが生まれ、親子一同健康に過ごし喜びの一ヵ年でした。
今年もまた続いてよい年でありますようにと心をかけて引きました。「大吉」が当たり、今年も幸せいっぱいと喜ぶお正月でした。
もう一度、「おみくじ」をみてみるとやはり大吉でした。今年もいいぞと親子で声をあげてよろこんだということでした。
やがて季節がすすみ昨日も雪、今日も雪と冬のさなかへとすすんでゆきました。夫婦も二人の子ども寒さに耐えながらも健康にすごしていました。
健康という喜びを何の気に留めることなく当たり前として毎日をすごしていました。
しかし節分になった頃になると春も近いぞと喜んでいましたが、上の八才になる坊やが学校で風邪をもらい、
更にこれをこじらせて肺炎になってしまいました。それからは大変です。家族中マスクをかけ今までとは思いもかけない生活が続きました。
あれほど元気だった子どもが「おかあさん、おかあさん」、
弱弱しい声で床の中から呼びかける姿を朝夕にみるとき病気ということの重々しさに暗い心になって行きました。
更に数日たっても下がらない熱にますます心配が加わり、もしや、と、死ということばさえ頭の中をよぎりました。
昔、あの一休さんというとんちのあるお坊さんが、めでたいという正月に「正月や冥土の旅の一里塚めでたくもあり、めでたくもなし」、
人ごみの中で言われたということは古くから伝えられています。正月気分で浮わついている人々に呼びかけたということです。
世間では正月といえば「おめでとう、おめでとう」と心うきうき笑顔をもって暮らしています。
そのうきうきした世間に一休さんは、人が生きている事実をよくみつめてみよと戒められたのです。
正月や正月やと心うきうきしている間にも時間もたち月日もたち、年をとって行くのです。世間のことにうつつをぬかしている間に、
時は待つことなくすぎて行き、やっと気づいた時には、はやくもこんな年になってと、老いをむかえ、体のおとろえをともに味わい、
病の心配をする身となります。そして親しくしていた人々が「あの若さで…」といわれつつもこの世を後にしてゆくとき、
自分にもこの日のくることを身近に感じます。こうしたこの世に生きる私たちは、誰もが逃れることのできない苦しみを、
遠い昔にお釈迦様が、この世の人間の現実として教えられたのです。人はこのように大きな荷物を背負って生きているのです。
その荷物はあなただけではないのです。
この世の人のすべてが背負って行くのです。この荷物を誰かに背負ってもらうことができないのです。
だってこの世に生きているのはあなた自身ですから。
もはや今日まで貯えた財産も名誉もすべてを失って無一文となって世俗に身をさらして行かねばならないのです。
「生きる」ということはどんなに苦労であるか、生々しく教えてくだされたのです。
本当にこんな大きな荷物を背負い旅する人生とは容易なことではありません。
だから親鸞聖人は今生きて行こうとするこの世を海にたとえ、荷物の大きさに思いをして、
この世を苦しみの海「苦海」ということばであらわしました。この苦海を渡りきるには常に世間の物指ではなく、
世俗をこえた確かな仏さまの教えに学ぶ歩みが大切です。