おはようございます。今朝はいただいたいのちをみんなでともに生きゆく喜びを見つけたいと思います。
この世に生まれたとき、どこの家で生まれどこの病院で生まれたとしても、みんな一人ぼっちで生まれてきたのです。
そしてどの人も何も身につけず、何の欲も持たず、何一つ財産もないままで生まれてきたのです。いわゆる裸一貫です。
そこですべての人が共通して持つものはいのち一つであったはずです。それは自分にも一つなら、あなたにもまた一つです。
どの人にも代わることのできないもの、もっとも尊いものが、今あなたを生かしているのです。
一日一日生きて行く間に、あの欲や悩みに追われて次々と苦を持ち、煩わしさを生み、日がたつにつれて老いのさみしさや、病のつらさ、
はては死の悲しみなど、いわゆる生老病死の四つの苦に身も心もとられて行くのです。
これらの苦はこの世に生まれた喜びの日からすべての人が背負った逃れることのできない人間の最も重い荷物でした。
その苦から逃れることは、今日までこの世の人間が、このいのちある限り、この私に出された容易に解くことのできない課題でした。
ヤレヤレと荷物を下ろすことのできる世界は、どこにどうしたらあるのだろうか。
荷物の重たさを現実に気付いて行くときこそ、ヤレヤレの場所の必要を気付き、ひとつの歩みを求める第一歩があるのです。
苦を背負ってこそ安らぎの世界を求め、前向きの歩みこそ尊くあなたを生かす力です。
あなたは今心の安らぎを求め、さがしている毎日なのです。人として尊い生き方ではありませんか。
こんにち、これだけ科学が発達し時代のすべてが進歩したというのに、この四つの苦から容易に逃れることのできない、
解決されずに人間は生きているのです。その課題は月日がたつにつれて却って大きくなってきているのではありませんか。
それは悲しいかな表面は人間ですが、中身は本当にいきいきとして生きていることのない、折角のいのちを枯らしているのです。
仏様はこの世に生きているすべての人に「この世の人よ、すべて幸せであれ」と私の苦しみをともに背負っていただいているのです。
この世界をきよらかなところといい、浄土といいます。みんながやれやれと荷物を降ろして落ち着くところです。
必ずみんな安心して共に生きる世界です。阿弥陀様という仏さまは私たちに呼びかけておられます。
お釈迦様は、このことをお経の中で私たちにもっと判りやすく、しかも詳しく教えていただいています。
その淨土という世界は、今、大きな荷物を背負って毎日毎日苦しく喘いでいるこの身から、その方向は西のほうで、
しかもそう遠くはないところと極めてわかりやすく説いていただいています。
それは夕日をみつめて沈んでいく景色に静かに一日の重荷を下ろしていく心安らかな思いです。
すでに浄土にひと足早く生まれた肉親を心に描き、出会いを喜び遇う姿です。
毎日毎日世間の埃をかぶり汚れた身でありながら、すばらしい淨土をこの心にみつけることが出来るとは本当に幸せないのちであり、
生きているとは何とすばらしいことでしょう。
ちょうど、仏さまの前に花を活け、灯明をつけるように仏前にお飾りしてこそ、仏様の心を受けて花は輝くのです。
確かに花はだれがみても美しい、その花は私たちが喜んでいるときは喜びの花となり、悲しんでいるときはともに悲しんでくれます。
すなわち私のいのちと共に歩みをしてくれます。分かち合う喜びは二倍となり、分かち合う悲しみは半分となる。
だから花は喜びのときも悲しみのときにも使われます。だから花は美しいだけでなく仏様と私たちがともに生きる証しです。
しかし、その美しい花もやがて枯れてゆきます。時には朝あんなに美しい、咲いた花が夕方にはすでに枯れてゆくこともあります。
人のいのちのようにいつかは消えてゆくことの、限りがあるということです。
このことを仏様は花を通して私たちに静かに朝夕に教えていただいたのです。
だからこそ毎日の変りゆく事実に出会って心をまどわすことなく折角の「いのち」を確かな仏様の教えに導かれてこそ人生の課題の答えがでてくるのです。