おはようございます。今日の目覚めとともに一生の大きな課題について考えてみましょう。
今朝は私の話も六回目となり最後の機会となりました。そこで今日までの要点をまとめる思いで具体的な話をしたいと思います。
毎回話してきた思いの中心にあるものは、少し気になることばかもしれませんが、私たちのいのちは無限ではないということです。
しかも目ざす所に一直線に歩むことが出来ないということも毎日の生活のなかですぐに体験することです。
この世に生きる以上、たった自分一人のみでは生きられないということの事実です。「人間」という二字はそれを端的にあらわしています。
以前私が学校に教師として勤めていた頃に、卒業生の結婚式に何度も招かれました。
例の通り披露宴が進み、やがて「恩師のひと言」をと祝辞を乞われ、多くの方々の前ですから無難に言い終わっていました。
ことばというものは無難に述べると余り心に残らないもので、期待になかなか応える事ができないものでした。
しかし披露宴が更に進みますと色紙と筆ペンがまわってまいります。一筆残ることばを書くことを求められているのです。
教師であり坊さんである私としては二人をはじめ親戚や兄弟等の期待に応えなければなりません。これが大変です。
特に書くということは彼と彼女にとっては永久に残る記念すべきものです。重い課題です。
きっと皆さんも、色紙や寄せ書きに、縦書きにしようか、横書きにしようか、何を書こうかと思い惑わされたことも多々あったと思います。
そして私がペンを持ち色紙を前にして書こうとすると、まわりの卒業生の目が私に注目されて、
中には「先生、今日どう書くの」と声さえかかってきます。更には一生のこの良き日に胸膨らませて輝いて生きるぞと心している二人がいるのです。
その思いに応えることばの発見に頭をなやませました。
そして漸くみつけることが出来ました。
それは浄土真宗の教えを今から約八百年の前に日常の教えとして書かれた親鸞聖人の御本のはじめに使われたことばでした。
それは限りあるいのちの中にありながら限りない喜びを見つけられた感激のことばでした。それは「限りないいのちの喜び」ということです。
ものが多い少ないというときに、私たちは多量とか、少量とかいうことばを使いますが、あまりにも多いときは「無量」ということばを使います。
その無量の下に寿命の「寿」を一字加えると「無量寿」となり、結婚の喜びの日にピッタリのことばでした。
そういえば「無量寿」という三字は一般のお家の仏間や座敷に額としてかかげられている意味のあることばでした。
みなさん、改めて、結婚式という場について考えてみてください。この世に何万、何千万といる人の中から、たった二人だけの出会いではありませんか。
このことを人生の先輩の人々は「不思議なご縁」といい、人間の計らいを越えた世界に感激した言葉です。
その不思議とは童話のようなものではなく、電子計算機による計算結果でもないのです。二人の心が響きあったからこそ、その結果であります。
心の歩みの不思議をつくづくと感じます。
その二人の心の響きが出席者の心に響き、会場を包んだより大きな輪となって、拍手となり寄せ書きのことばとなってきたのです。
そこには単に二人だけがいるのではなく、多くの人々によって期待されている二人のいのちがあるのです。
この実例だけでなく私たちは人間である以上、朝夕に期待されて生きていることを思えば、人として輝くいのちを全うする責任があります。