ラジオ放送「東本願寺の時間」

武田 昭 (滋賀県 本福寺)
第3回 たったひとつのいのちを仰ぐ [2010.9.]音声を聞く

おはようございます。今日もまたすばらしい一日のはじめをむかえられたことをよろこびましょう。
私は、琵琶湖のほとりにくらしています。その琵琶湖は日によりいろいろの景色があります。毎日同じ様子ではないのです。 それは太陽の光をいっぱい受けて水面が輝き、青々と冴え、みるからに心弾ませる。 「あ~いい景色だな、やっぱり琵琶湖の近くに住んでよかったなー」と心の安らぐ日もあります。 しかし反対にどんよりとした曇空のもと水面がにごり暗い思いにさせられている日もあります。 いやいや、もっと強い風に吹かれて白波さえたて、荒れくるう景色をみなければならないこともあります。 これらの変化は同じ一日の中でも、朝、昼、夜とどんどん変わって行きます。
ちょうどその琵琶湖の移り変わりは、私たちの人生のように都合よい日もあれば、もっと心を暗くする日もあります。 変わらぬことを常といいます。そして世間ではどんどん変わりますので無常という言葉があります。 毎日毎日天気が一日のうちでもどんどん変わり、毎日毎日よくもこれだけ変わるものだと思うくらいです。 あなたの身体の身長も体重も毎日毎日変化し、若い人はどんどん背が高くなり体重もましてきますが、老人になると身長も体重も減って行きます。 ましてや外目の身長や体重だけでなく心については目にふれるものをみる度に「ころころ」と変わって行きます。 心というのは私たちの体の中味をつくる一番大切なものですが、それさえもどんどん変わるとなれば、 一体私たちは何を自分の中心として生きて行くのでしょうか。
お釈迦様は今から二千五百年の大昔インドにあった国の王子様でしたが、生まれてすぐにお母様は亡くなりました。 だからお母さんの妹様に育てられて、実のお母さんを知らないままの悲しい一生でした。 これから砕けることなく、暗く生きるのでなく、この悲しみをだれにもゆずることも代わってもらうこともできないことを自覚して、 このいただいた「いのち」は私自身にとって最高のものであると強く生きて行かれました。 この世に生まれて、われこそ何にもかえがたいものとして、私自身を大切にして生きたいと誓いをたてられました。 それが難しい言葉ですが「唯我独尊」という、われこそ最も尊いものなりと不幸の悲しみにくれることなく、力強く前向きに生きて行かれました。 まことに人間として生を受けた感激がお釈迦様の一生の出発点となり、これらの歩みが一生を支えたのです。 そして、その歩みは、ほとけ様となって最後を全うしたのです。
だから私達は、この世を終わった人を単に死人としてみるのではなく、確かにその外見は変わったけれども、 その人の一生は海あり、山あり、谷ありと苦難をのりこえて長い人生を全うした意義深い方として頭を下げ、 同時に未熟な私たちへの先生として合掌する「ほとけ様」として、人生の先達として迎えて行くのです。 その思いはもはや人ではなく尊い「ほとけ様」としての日々の心のよりどころとしているのではありませんか。 去り行く人は風雪の人生を戦いながら、この私のために汗を流し、身を砕いた最高の恩人です。 もはや世間の損得を越えてすばらしい世界に清らかな歩みをなされているのです。この世界を淨土というのです。
その「ほとけ様」となられた方は、いちばん最初にお会いし、教えをいただく機会がお葬式だと思います。 そこにあるのは、身をもって人間の身のはかなさを教えてくださった、尊いお方との出会いです。
ですから、亡き人を「ほとけ」として仰ぐ、真宗の教えに生きるものとして、「清め塩」を用いる習慣には、違和感を覚えます。 すでに利害や損得の汚い世界を終わり、浄土というきよらかな世界に「ほとけ様」として生きておいでになる方に「清め塩」は必要でないと思います。 悲しみの涙のなかにかけがえのない、いのちからの導きを、多くを学んで行かねばならない私でありたいと思います。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回