ラジオ放送「東本願寺の時間」

武田 昭 (滋賀県 本福寺)
第5回 蓮華 ハスの花の生き方から [2010.9.]音声を聞く

おはようございます。今日も機嫌よく目覚めができましたか。
季節はどんどん深まり、人はもちろんのこと大自然のすべてが輝き、いきいきとする季節となりました。 それは道端の名もしらぬ草も我が家のまわりの草木や飛び交う鳥や虫たちもすばらしい「いのち」の輝きをもって、 私は生きてゆけよと導いてくれています。そして道端の草は日ごとに成長しつつも、ふまれてもふまれても、 冷たい雨にたたかれても、どんなはげしい風にふかれても何の不服も示さず生き続け、やがて芽をふき蕾をつけ花を咲かせ、 すばらしいいのちの輝きを私たちの眼の前にみせてくれます。生きるとはこんなにすばらしい、すごいのだと強く教えてくれます。 そんな折角のいのちを何気なく月日のすすむことに流されてすごすことは本当に勿体ないことです。
このようないのちのすばらしさをお経の中には、お釈迦さまは花の生き方から教えられています。 阿弥陀経というお経ではある花が昼夜六回にわたって雨のようにふりそそぎ、人々に潤いを与えてくれると、人のいのちへのかかわりをのべています。 私たちは毎日喜びにつけても悲しみにつけても花を飾り、潤いを受けています。 いろいろの花がありますが、仏様の花として最も大切にするのはハスの花です。
ハスは仏様の心をあらわし、私の未来に思いする花として仏さまにお供えする花です。 この花は日本では年中容易に咲きませんが、必要なときは造花でお供えをします。それほどまでしてもどうしてハスに心をよせるのでしょうか。 それでは水辺に咲くハスを思い出してください。第一にどんなところに育っていますか。
私は琵琶湖のほとりの水の豊かなところに住まいしています。その水は昔とちがいきれいです。 だからたくさんの大小の魚や小鳥たちも住んでいます。しかしそのきれいな水辺にはハスは育ちません。 今の季節にはハスの植物の葉も茎も全くみることはできません。しかし、もはや枯れたり朽ちたりしたのではありません。 時至ればやがて芽を出し茎も育ち、成長するためのエネルギーを貯えているのです。耐えて生きているのです。 その根は泥んこの水の中に育っています。泥水を吸って生きているのです。たいへんに苦労なことです。
やがて咲く花は当然に泥んこの色の花が咲くはずです。しかしみなさんご覧ください。 花は決して汚い色のものではなくピンクや黄色などのきれいなふくよかな花です。 私の地方では大分に暑さ加わった六月下旬からやっと土の中から芽を出し、七月八月の暑い太陽の頃に照らされて大きく成長してゆきます。 そしてやっと美しい花としてみんなに認められますが、その花は一週間で枯れてしまいます。余りにもはかない一生です。 人でいうならばたいへんに苦労して一生を生きたとしても必ずはかなく世を終わる日があるということです。 しかしその一生泥んこの中で生きても、泥んこの花で終わることなく、美しい花として短いいのちの中に一度の輝きをもって終わりをつげるという、 私たちの一生がどうあるべきかと大きな導きを示しています。泥んこの水を吸いながら泥んこの花で終わらない不思議はどうしてでしょうか。 そこには、ものいわぬ空気や水そして太陽などの大いなる力が世のすべてに等しくかけられている恵みのおかげです。 水も空気も太陽も恩をきせることなく無条件のもとに、支えてくれる結果です。それは自分が他のもののいのちの幸せに役立つことの喜びです。 今日のことばでいえばボランティアで、古いことばでいえば奉仕である損得を越えた世界です。
しかし今日の私たちのみるまわりの社会は、単に損か得かで成り立っているといっても過言ではありません。 計算づくの日常はお互いに苦しく無理をしなければなりません。 しかし、身近なところからお互いに役立つことをよろこんで行くことがいっぱいあります。
損得を越えた美しい「いのち」のふれあいこそ、今の私たちにできる奉仕の世界であり、 仏さまの願いにめざめた人間の素晴らしい生き方ではありませんか。ともに身を心を通していのちの輝きをしたいものです。

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