ラジオ放送「東本願寺の時間」

直林 真 (石川県 仰信寺)
第1回 執着する者 [2010.6.]音声を聞く

 おはようございます。石川県の直林 真と申します。どうぞよろしく御願い致します。
 私たち人間は生まれてきて、物心がついたあたりから周辺の様々なものに執着をします。
 直接手にふれたり、自分の体内に取り入れる飲食物であったり、おもちゃに代表されるモノであったり、また身近にいる親などの家族であったりと、自分自身を取り巻くすべてのものに執着せずにおれないのです。
 その執着するということにおいて、この自分自身を守りまたは安心させていくことがあるのですが、同時に執着するということが苦しみの最大の原因になっているのです。
 自分に本来備わっていたと思っていたことが実は備わっていなかったりとか、自分が当然与えられるものと思っていたことが与えられなかったりすると、がっかりする、怒ったりするということが数多くあると思います。
 自分自身にもともとない物や備わっていない能力を追い求めていくというのは浄土真宗の仏道ではないのでしょう。  真宗の仏道で一番間違うところは、高い能力を身につけその能力を持って自分の得たい社会的地位や名声や財産を勝ち取ることこそが人生の目的であり、それをかなえてもらえる条件が宗教を信仰する熱心さと真目面さのバロメーターの高さで決まると思い込んでいることです。
 次に浄土真宗の教えに出会い、自分自身の人格そのものを変革することによって、清らかな人格になり幸せな生活を送ることと思い込むことです。
 浄土真宗の教えに帰っていくということはそういうことではなく、自分勝手な思い込みこそが間違いであったと知らされることです。
 「宗教といっても所詮は人間が作ったことでしょう。」といわれる方も少なくないのですが、浄土真宗はそうではないのでしょう。
 人間が自分たち自身を中心において、考え方を極めていった延長線上に真宗の教えがあるのではなく、人間の頭でどれだけ考えてみても真実の教えということがでてこないということに気づかされるということです。
 真宗の教えに耳をかたむけ学んでゆくということは自分の頭の中を頼りにし、自分の考え方を中心にして、真宗の教えが自分にあうかどうかを考えていくことではないのです。
 その逆で自分自身の考え方そのものが、実はまったくアテになるものではなかったと思い知らされ続けていくことでしょう。
 「この私の頭が納得できるような法話が聞きたい」ということも、たまに耳にしますが自分自身の頭が納得したということは、ある面危険なことだと思います。
 それは自分自身の欲望を中心した生き方そのものを肯定したということにつながるからです。けれどもくりかえしになりますが、真宗の教えを聞き学ぶことによって、欲望中心に生きている生活を断ち切り、清らかな生活を送るようになるということではありません。
 欲望を中心とした生活そのものが問いかえされるということです。真宗の教えに出遇うまでは、欲望中心の生活、欲望追求の人生そのものを疑うことのない、あたりまえの人生だと思い込んでいた。その事を根本から見つめ直すことを知るということにつながると思います。
 数年前、株式投資をしてみないかという勧誘の電話がかかってきた時に、「私はお金というものに飽きたので、そのお話はけっこうです」というと電話は切れました。お金に決して飽きたわけでありません。けれどもお金は人間生活にとって不必要ではありませんが、お金に代表されるような人間の物欲は飽きる事がない為にますます人間生活が幸福になったということではなく、逆にますます苦しい人間生活を送るということになって来ていると思います。
 本物と偽物の価値が逆になっていたということに気づかされるということが、教えに遇うということだと思います。

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