ラジオ放送「東本願寺の時間」

直林 真 (石川県 仰信寺)
第3回 闇と光 [2010.6.]音声を聞く

 おはようございます。直林です。今朝もよろしくお願いします。
 前回は浄土真宗の教えは、ほかの誰かのお話をしているのではなく、すべてこの自分に向けて語りかけてくださっている教えなのですという事をお話させて頂いたかと思います。
 私たち人間は自分中心の視点や考え方を持ってしか生きていないのではないでしょうか。
 「車の渋滞に巻きこまれて、約束の到着時刻に遅れてしまって困った。」という事をたまに耳にしますし、私たち自身も何度か経験したことかと思います。
 では本当に「車の渋滞に巻きこまれた」のでしょうか?私はちがうと思います。車の渋滞が起こったのは事実でも、この私が「巻きこまれた」のは事実ではないと思います。
 なぜなら、ほかの人の車はこの私を約束の時刻に遅らせようと、わざと渋滞を作っているのではないからです。ほかの人の車もそれぞれの理由で車を走らせているのです。目的地に早く到着したいと思っているのは、この私一人ではないのです。
 ここで大事なのは、ほかならぬこの私自身とその車も渋滞をつくっている一台という事が抜け落ちてしまっている事でしょう。
 私はその事実に気づかされてハッとなったのですが、また同じ状況になってもイライラしないのかといえばそうでなく、やはり道理がわかってもイライラするのです。それだけ人間の自分中心性は根深いのでしょう。
 このように被害者になるのは得意でも自分自身もまた加害者であるという事実を忘れているのです。
 東本願寺に同朋会館という研修施設がございます。そこに草とり奉仕でこられた方々とご一緒に境内の草とりをさせてもらっている時に、一人の女性の方(かた)にこういう事を言われたのです。「私は今でも夫に気をつかう、けれど夫の方(ほう)も私に気をつかっている。特に気をつかうのは息子の嫁だ。けれどもいっしょぐらい息子の嫁も私に気をつかっているはずだ」
 私は草をとりながらの何気ない会話を聞いた時に驚かされました。たいてい家族の話題になると自慢話になるか夫への愚痴であったり、息子の嫁の悪口になり、いかに自分が家族に気をつかい、家の中で一番の苦労人であるという結末になりやすいのではないでしょうか?
 自分を善人として他者の方(ほう)が間違っているとしたいのが人間のあり方ではないでしょうか? 自分中心の想いにしかまなざしが向かないという事は、どれだけ長く深いつき合いをしているつもりの他者でも、本当の関係というものはひらかれていないのではないかと思います。
 浄土真宗の教えでは、仏(ほとけ)様のはたらきを光のはたらきにたとえられて、その光は人間のもつ深い闇を破ってくださると説いています。
 私達は闇と聞くと夜中停電になり、まっ暗(くら)な状態を思いうかべやすいと思いますが、確かにそれも闇にちがいありませんが、親鸞聖人がご指摘くださる私達人間がもつ本質的な闇はそんなものではないのでしょう。
 夜中停電になると、どうするでしょうか? まず懐中電灯をさがしたり、お寺ですと大きなローソクがたくさんあるので、何とか明(あか)りをともそうとします。自覚できる暗闇であるなら何とか灯(あか)りを求め、また灯そうとしますが、私たちの闇は自分自身が暗闇のどまん中にいる自覚すらないのでやっかいなのです。
 それとは反対に自分自身こそは、明るさのどまん中にいるつもりになっているのが現状ではないでしょうか? その無自覚的な闇はそれゆえに自分自身の能力の限り努力の限りを尽くしたところで、破れることではないと親鸞聖人は教えてくださっているのです。
 それは人間のおもいを超えた仏様の光のはたらきによってのみ、知らされ破ってくださると説いておられるのでしょう。

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