ラジオ放送「東本願寺の時間」

直林 真 (石川県 仰信寺)
第6回 いのちの願い [2010.7.]音声を聞く

 おはようございます。直林です。今朝もよろしくお願いします。
 前回も自分自身の人生に対して、様々な条件を満たしていくことによって、またそういうことを追求してゆくことが、特に現代を生きる私達が幸せになる人生をめざしていくことにほかならないと思い込んでいることの問題性についてお話させて頂いたかと思います。
 実はそのことそのものが、自分自身とそして共に生きている無数の人々の「いのち」を傷つけている事に、超格差社会といわれている、今を生きている私達一人一人が気づかせてもらう時ではないかと思うのです。
 現代社会を生きる私達は常に交換条件、取引関係の中で生活をしているのではないでしょうか。大昔は海でとれた魚介類と山や野原でとれた野菜類を物々交換していたと伝えられています。時代を重ねて現代になると、お金というものを介在して品物を取引しています。今度はそのお金を得る為に、会社などに勤めにいったりまた自分で商売をしてお金を手にするということをします。
 すべてほとんどの事は交換条件取引関係の中で成り立っているといっても言い過ぎではないでしょう。
 そういった現代人の感覚、価値観で浄土真宗の教え、阿弥陀如来の救いをとらえてしまうので、ますますわからなくなってしまう事があろうかと思うわけでございます。
 くりかえしになりますが、真宗の教えはそういった人間の考えそのものが、救われるということによってまったくもって、間に合わない役に立たないものになると、教えてくださっているのでしょう。
 現代という時代はまた別のいい方をするならば、いのちへレッテル貼りをしている〈じだい〉といえるのではないでしょうか?
 スーパーなどで貼られている値札を自分自身とまた他人にむけて貼りつづけているのが私達の生き方そのものではないかと思うのです。若くて、健康で、働けるいのちを善しとして、反対に若くなく、健康でもなく、人のお世話にならなければ一日も生きていくことのできないいのちを、だめないのちと決めつけているのではないでしょうか?
 私はお会いした事はなかったのですが、大谷派の僧侶を養成する学校で永らく学院長をなさった信国淳(あつし)という先生は「すべてのいのち、みな生きらるべし」というお言葉を残されたそうです。私たちはいのちそのものへ対し価値づけ、優れたいのち、劣ったいのちと分けて考えがちです。「すべてのいのち、みな生きらるべし」とは、現代を生きる私達自身に、いのちの根源からの願いであり、さけびであると同時に人と生まれてきたことをあたりまえの事とし、何ら驚きをもたずに生きている私達一人一人にいのち本来の願いに耳を傾けさせて下さるお言葉であると、私は深くいただいています。
 最後になりますが、私が十数年前、住み込みの生活から帰ってきた頃のことです。毎日、寺にやってこられるあるおじいさんがおられたのです、その方は私の子供のころから寺のお世話をしてくださる方でしたが、私の子供の頃とひとつ大きく変化していたことがあったのです。そのかたは認知症になっておられました。それでも毎日寺に来て本堂にお参りをしてすぐに家に帰られるのですが、家に着くと今度は今さっき寺へ行って、お参りしたことをコロッと忘れられてまたすぐに、寺の本堂にお参りに来られるのです。これを一日何往復かされるのが何日も続いたという事がありました。正直いってこのおじいちゃんのお家(うち)の方も私のところも大変困ってしまったのです。私自身も困った人だなあという思いがあったのですが、この方が亡くなって強く感じさせていただいたのは、私がもし認知症になったら仏様の前にお参りするだろうかということです。そう問うた時、がく然となってしまったのです。本当に大事なことは理性を破ってはたらくということを教えられたと思います。
 誠に拙く恐縮でしたが、六週間ありがとうございました。

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