おはようございます。石川県の直林 真と申します。どうぞよろしく御願い致します。
浄土真宗は人間とその社会を批判的にとらえている宗教です。批判と悪口はまったく違うのです。本当の批判には愛情があるのです。
批判を通してしか、真実を表すことができない面があるのです。
戦前から現代も私たちが心の中で思ったり直接言葉で人に伝えることに、「人には負けたくない」とか「人に負けるな」という言葉がありますが一見、大事なことに思えますが、実は危険な事をはらんでいます。
人間に生まれてきた限りは、他人と競争し打ち勝っていく事こそが、価値のある人生だとか有意義な人生だと思い込んでいる事です。反対に他人に負けて自分の思い通りにいかなかった人生は何の意味もない人生という事になるのでしょうか?
他人と競争し勝つか負けるかという事が人生にとって一番大事なことと思い込んでいることが、幻想であると浄土真宗は教えているのです。自分を守るために他者を犠牲にし、圧しつぶしていく事はまた同時に自分をも圧しつぶしていく事になるからです。
私達が常日頃の中で、価値感のまん中に置いている事に大きな疑問を持つことが、真宗の教えに出遇っていくということでしょう。
子供の頃から「みんな仲良くしましょう」と親なり学校の先生から教えられるわけですが、「仲よくしています」とこたえられる人もあるかと思いますが、私達は仲良くできる人とだけ仲良くしていて、仲良くできない人とは仲良くしないどころか、その「みんな」のうちにも入れていないのです。
「人を見る目に自信がなくて困っています」という方よりも、内心「私は人を見る目だけは自信を持っている」というかたの方が多いのではないでしょうか?
それはあくまでも、自分自身の都合や好き嫌いでもって他人を見ているからです。
自分中心の想いで、良い人、悪い人を決めつけているにしか過ぎないのです。
浄土真宗に聞き学んでいくという事は、立派な人間になろうとか、賢い人間になりましょうということではないのです。なにも立派な人、賢い者に成る必要はないからです。
それよりも大事なことは、本当の自分自身に遇うということです。他人の心の奥はわからなくても、この自分は自分自身のことが一番よくわかっているつもりになっていますが、実のところこの自分自身が一番わからないのです。真宗では、仏法という仏さまの教えこそが真実といってきました。その仏法は鏡のようなものですと、たとえられてきました。
私達はどれほど遠くを見わたせる目をもっていても、鏡がなければこの自分自身の顔を見ることはできません。それと一緒で仏法という鏡がなければ本当の自分自身を見るということはできないと思います。
「他人とつき合うのは難しい」と言われる方は多いのですが、同時にまたこの自分自身とつき合うことも難しいのです。
なぜなら、この自分自身の心ひとつすら自分の思いで、すべてコントロールすることができないからです。
「自分がわからない」、からスタートしたのが仏教といっても過言ではないと思います。
わからないことだから、めんどくさい事だからほっておくのかという問題が出てきます。
真宗の教えに聞き学んでいく事は、自分にとって都合の良い答をもらうという事ではなく、「自分とは一体何だろうか?」という問いをいただくということでありましょう。
絶対的な答というものは、どこにもないのです。すべての教えの言葉は他人の方(かた)の話をしているのではなく、すべて自分に向けて語りかけて、くださる言葉という受け取りが、浄土真宗の学びの中心になるのです。