おはようございます。直林です。今朝もよろしくお願いします。
前回は浄土真宗に聞き学んでいるといっても、自分の都合を中心に置いて聞いているならば、本当に聞いた事にはならないといったお話をさせて頂いたかと思います。
「すべての生きているものを、救いとって見捨てることはない」という阿弥陀如来のお約束は、一見すると大変結構なお話のように思いますが、自分自身を世界の中心に置いていろんなものを見たり、考えたりしている人間自身には、すべての生きているものと共にということより、わが身一人が救われればそれで良いというところから、なかなか脱(ぬ)け出せないのではないでしょうか。
けれども「すべての生きているものを同時に救う」ということは、阿弥陀如来そのものなのでありましょう。
現代を生きる私達は、様々(さまざま)なものに条件をつけなければおれなくなってきているのではないでしょうか?
それは人として現代という時代に生まれてきた時から、私達自身が周りから様々な条件をつけられてきたということにあろうかと思われるのです。
赤ちゃんのときは元気であれば良いといったものが、学校へ通う頃になると元気で、勉強ができて、ついでに運動神経も優(すぐ)れていたならば良い子供だ。
今度は高校、大学へと進学するだけではなく、少しでも優秀な学校に入ることこそが将来の安定した生活につながりやすいのだ、というようにより良(よ)い生活、幸せな人生を送るために様々な条件をつき付けられているといっても過言ではないのではないでしょうか。
それでは本当に様々な、そしてひとつでも多くの条件を満たしていくことによって、私達人間は安定的な幸せを得ることにつながるのでしょうか?
様々な条件を重ねることによって幸せというものが成り立つのであれば、そんな不安定なこともないのではないかと思います。ひとつでも条件が満たされなければ、またひとつでも条件が無くなれば崩壊してしまう事に、ほかならないのではないでしょうか。
けれども現実の私たちの生活をみるならばどうでしょうか。ひとつでも多くの条件を満たすために日夜、努力奮闘しつづけているのではないでしょうか?
真宗の教えに話をもどしまして、親鸞聖人がお説きになる阿弥陀如来の教えは、そのような条件を満たしていくことが、人間の安定した幸せ、もっというならば救われるということに何ら関係しないと、私は受けとめさせていただいています。
逆に本来とは正反対のことを本来として追求している私達、とくに現代を生きている人間に、批判的かつ愛情に満ちたメッセージを送り続けてくださっているのが、親鸞聖人の浄土真宗の教えだと思うのであります。
以前お会いした方から「私は頭が悪くて浄土真宗の教えがわかりません」という事を言われたことがあります。私自身も二十代どころか十代の頃から、その方と同じ考えをずっと持っており、寺に生まれ僧侶を志すものとして、大変劣等感にさいなまれていた時期もありました。しかし、自分なりに先輩方のお話などに学ばせてもらううちに、個人個人の能力のちがいというものは仮にあるにしろ、浄土真宗の教えはこの自分自身の頭のなかで受けとり理解してはじめて救いの対象になるということではなく、すでにして、この私が好みと好まざるに関わらず、もれなく救いの対象にうちにはいっているのでないかのなあと思うようになりました。けれども自分自身の能力や才能と他人のそれを比較し一喜一憂する私という思いから一歩も抜け出せないでいるという事も日頃の生活から教えられているのであります。