ラジオ放送「東本願寺の時間」

三島 清圓 (岐阜県 西念寺)
第2回 如来と共に [2010.7.]音声を聞く

 おはようございます。
 わたしは一頃、アメリカのハワイのお寺で働いていたことがあります。お経は日本語で読みますがお経の後のお話しは英語なのでこれには心底苦労しました。ある日、そんなわたしの覚束ない法話を聞いておられた高齢のご夫人がお話の最中に倒れられたことがありました。早速、病院へ見舞いに行きますと、そのご夫人のベッドの壁に何と阿弥陀様の小さなご絵像が鋲で留めてあるのです。わたしは驚いて「これは何ですか?」と訊ねますと「日本を離れる時、母が行李の底に押し込んでくれた絵像です。こちらに来て戦争があったりしてすべてを失いましたがこれだけが残りました」と言って微笑まれました。わたしはその言葉に衝撃を受けました。しかしもっと驚いたのは病院の壁にかかった絵像に驚いている自分自身でした。多くの日本人がそうであるように、わたしの中にも絵像と言えば死んだ人の供養、往生と言えば死と言う、誰に教わった訳でもないような固定観念が心のどこかに染み付いていたことを知らされたからです。まわりのベッドを見れば、何人かの現地の患者さんは枕元に聖書を置いていました。また枕元の壁に十字架などを当然のこととして掛けているのでした。本来は仏教徒が阿弥陀仏の絵像を張っても何の不思議もないはずです。そう思いながら廊下に出ますと礼拝堂がありました。しかしそれは遺体を安置する場所ではなく文字道理、朝夕、患者さんが礼拝するための礼拝堂だったのです。廊下ですれ違う看護婦さんは墨染めの衣姿のわたしに軽く会釈してくれます。その光景を見てわたしは(日本人にとって宗教とは何なのか?)と考えざるを得ませんでした。
 日本に帰国していろいろ調べるうちに、お寺や仏教が死のイメージと強く結びついてしまったのは実は徳川幕府によってお寺は葬式と先祖供養をするところだと定められて以来のことだということを学びました。仏教の永い歴史から言えばそれはやっと昨日の出来事なのです。そのイメージを今日まで日本人は引きずっているのでした。
 話は飛ぶようですが、来年は親鸞聖人の750回ご遠忌法要が京都の東本願寺で勤められます。その50年前、すなわち700回忌の記念事業として親鸞聖人の書物が英語に翻訳されました。その翻訳者であった世界的な宗教学者、故鈴木大拙師は本願を(いのり)と訳されました。本願とは一切衆生を救ってけっして見捨てないという阿弥陀仏の誓いのことです。さらにそれまでは(修行)と訳されていた行という言葉をリビング、つまり(生きること)と訳されたのです。これはどういう意味になるかと申しますと、念仏者とはアミダのいのりを生きるものだ、ということになります。さらに言いますと念仏者とは如来と共にこの苦悩の人生を歩み切るものだ、ということになります。
 日本に帰国してこの名訳に触れるたびにわたしは遠くあのハワイで出会ったご夫人を思い出します。彼女こそ苦労の多かった人生の幾山河をあの本尊と共に力強く歩んで来られたのではないか、と。戦争の犠牲者は国内の日本人だけではありません。海外の日系人も敵性国民として排除され移民以来営々と築いて来た人生を一度断絶せられた歴史があるのです。彼女は最後にこう語りました。「もしここから日本まで一本の道が続いていたら、そしてもし人が一日一粒の米で生きられるものだったら、わたしは迷わずその道を一日一粒の米を食べて歩いてでも帰ったでしょう」と。わたしはその話を伺って彼女の苦悩の人生を照らし続けて来たであろうその枕元の本尊に手を合わせました。そして仏教徒にとって本尊とは礼拝の対象だけではなくそれをいのちとして共に歩むことなのだ、ということを彼女から教えられた気がします。

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