ラジオ放送「東本願寺の時間」

三島 清圓 (岐阜県 西念寺)
第6回 最後の眼 [2010.8.]音声を聞く

  おはようございます。
 「今の教育は知識を教えるだけで、何が本物かニセモノかを見る目を養うことを教えない」とある方が語っておられました。さてそこで問題となるのは本物とニセモノを見分ける眼をどう養うかということです。英国の骨董鑑定士の学校では教材に本物しか使用しないと云われています。生徒の目の前に本物とニセモノを二つ並べて比較するような野暮なことはしないで本物だけに囲まれた生活を生徒に送らせるのです。すると生徒はニセモノを見ればすぐ分かるような能力が自然に身に付いて来るのだそうです。ニセモノを知る前にまず本物を見る眼を養うというこの学校の方針は私達にとっても大変重要な示唆に富んでいます。しかしそうは言っても私達の日常はその学校のように本物ばかりに取り囲まれている訳ではありません。むしろその逆です。まがい物ばかりの生活の中でほんものを見る眼を養うのは至難の技です。そういう環境の中で自分の眼を養うには日頃良いものだけに触れて自分の眼の付け所を高めるという無限の努力が必要とされます。特に芸術や芸能に携わる人はそうです。
 ある書家は「自分の字が好きだという人に書の大成者はいない」と語っています。また謡曲の世界でも「はじめからノドの良いものに謡の名人になった者はいない」と言われているそうです。これはどういう意味かと言うと、自分の眼の付けどころが高いから自分の字やらノドに満足できないという意味です。初めから自分の字やノドが良いと思えるのは、それが良いのではなくして眼の付け所が低いだけの話です。そうすると眼の付けどころの高さがその人をどこまでもリードして高めていくことになります。それ故名人と云われる人は晩年になっても「まだまだです」と語られるのです。この「まだまだ」がその人を高めるのです。
 さて、私はここにもう一つの眼がある事を最後に付け加えたいのです。それは本物に触れて、自分の眼の付けどころを高めて、「まだまだ」と自分を高めていく生き方には実のところ限界があるということです。その道を命がけで追求すれば、必ずや一つの壁に突き当たります。それは「まだまだ」と見るのも自分、「まだまだ」と努力するのも結局自分ではないかという壁なのです。それはどこまで大きくなったと言っても結局は自分という鉢の中の盆栽。どこまで飛んでも世界の外に出られない孫悟空のごときもので、地の果てまで行っても自分の自我の枠内を一歩も出れないのです。わたしは親鸞聖人が比叡山での自力での修行の果てにたどり着かれた矛盾もそういうところにあったのではないかと思うのです。
 親鸞聖人が山を下りて最後に頂かれたのは自分の眼ではなく仏の眼でありました。その仏の眼に照らされてほんとうの自分の姿が見えて来た。それを「愚」、愚か、と言います。その愚という自覚をそのままご自分の名前として生涯「愚禿釈の親鸞」と名のられたのでした。
 この阿弥陀仏の眼こそ自分を超えて自分の外から自分を叱ってくれる最後の眼であるとわたしは信じて疑いません。
 親鸞聖人、八十二才の晩年に作られたお詩に、

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて
清浄の心もさらになし

 というのがあります。(虚仮不実の我が身)とはうそ偽りの自分ということです。この詩をある方に語ったところ「聖人が浄土真宗に入られたのは二十九歳なのに、八十二で虚仮不実の我が身とは真宗も効き目がありませんな」と言われたことがあります。わたしは「八十二歳と言えば、世の人は皆、好々爺になる歳だが聖人はいよいよ如来の眼に照らされて実に冴え渡っているではありませんか」と答えておきました。     了

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