ラジオ放送「東本願寺の時間」

三島 清圓 (岐阜県 西念寺)
第5回 最後の問い [2010.8.]音声を聞く

 おはようございます。
 「歎異抄」という書物があります。親鸞聖人の弟子、唯円という名の僧によって書かれたものです。唯円は聖人が亡くなられて二十七年ほど後になってなお耳の底に残る聖人の言葉をまるで昨日の出来事のようにその書に著しました。
 さて、その「歎異抄」の第二章に

  おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御ここざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり
 という一節があります。
 これを私流に訳して見ますと、

  あなた方が多くの国境を命がけで越えて来られたのは、唯ひとつ、往生極楽の道を問い聞くためでありましょう
 ということになります。
 この言葉は遥々京都まで尋ねてこられた関東の門人に対して聖人が最初に述べられた言葉です。これを読みますとその時の情景が浮かんできます。擦り切れたわらじを脱いだ関東の門弟はさっそく座敷に通されたことでしょう。座敷と言ってもその当時、聖人は弟、尋有の小さな庵のような住居に居候されていたとも言われています。その床の上で旅の汗を拭いながら懐かしい聖人の登場をしばし静まり返って待っている一行の姿が髣髴とします。そして一同に対面された聖人が発せられた最初の言葉が先ほど申しました「おのおの十余カ国」という一節です。従ってこの一節は聖人の最初の挨拶、または労いの言葉のようにも聞こえます。しかしよく読んで見ますとそこに聖人の厳しいお諭しの響きが感じられて来るようです。それは対面する門弟に対して二つの事を暗に伝えようとしているかのようです。一つは(往生極楽の道とは命がけで求めなければならないものなのだ)と言うことであり、もう一つは(あなたがたがほんとうに求めておられるのは往生極楽の道―すなわち自分自身の救いの道ではないのですか)という問いかけであります。
 さて、わたしが「歎異抄」に始めて触れたのは二十歳の頃でした。わからないままも深い感動が伝わって来ましたが、今申しました「往生極楽の道」というくだりには、ちょっと待ってくれよ、僕はまだ二十歳なのだ、という躊躇を覚えた事を記憶しています。
 しかし今還暦を迎える歳になって「歎異抄」はまた違った趣をもってわたしに問いかけてくるようです。特に自分にとっての十余か国とは何だったのかをこの頃しきりに考えさせられるのです。
 確か西洋の言葉に「人間は一つの夢からもう一つの夢へと生きているものだ」というのがありました。わたし自身も三十代なら三十代の、五十代なら五十代の夢がありました。結婚したら、子供が卒業したら、出世したら、とそれこそ今日まで十余か国の夢を渡り歩いて来ました。それは(身命をかえりみずして)と言うほどのことはなかったにせよその都度、真剣でした。しかし今になって思うのですが、その夢のどれもが自分が真に求めているものの、それでもなくこれでもなかったように思えるのです。それらの夢は叶ったと思えた瞬間から消えて行くものでした。叶わなかった夢も日替わり定食のように歳と共に変化して今は違う夢を夢みている有様です。まさに流転の人生です。わたしの団塊世代の同級生の中にはここらで人生とはこんなもんや、と手打式を済ませたいという人もいます。しかしわたしのこころの底に(それでほんとうにいいのか?)というつぶやきが聞こえて来ます。その迷えるこころに(おまえが十余か国のさかいをこえて、迷いながらも生きてきたほんとうの理由はひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなのだ)という聖人の言葉がいよいよいよいよ抜き差しならぬ最後の問いかけとして響いています。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回