ラジオ放送「東本願寺の時間」

三島 清圓 (岐阜県 西念寺)
第3回 問いを学ぶ [2010.8.]音声を聞く

 おはようございます。
 最近本屋に行きますと、人生を如何に生きるべきかという類の本が多く目に付くようになりました。おそらく団塊の世代が退職期を迎え始めたことが影響しているからでしょう。
 どんなことが書いてあるのかとペラペラとページをめくって気が付いたのは、そこには「問い」ではなく「答え」が書いてあると言うことでした。人は果して他人の与えてくれた答えに自分の人生を委ねることがほんとうにできるものなのか一度よく考えてみなければなりません。そうでなければ迷える衆生によって書かれたものを迷える衆生が読んでますます迷って行くということにもなるのではないでしょうか。
 即席の解答を求めるという傾向は情報化時代のひとつの弊害とも言えます。その結果として現代人は考えてもすぐ答えの出ないような問いや悩みを長く持ち続けることに耐えられなくなってしまいました。辺見庸という作家は現代はコーティングされた時代だと言います。コーティングと言えば何かを膜で覆うことでしょう。わずか半ミリほどの膜であってもそれで覆われたら水も匂いも通さない。ちょうどそのように戦後の日本は死の問題だとか、人間の苦悩とか、そういう見たくないもの、醜いと感じられたものを意識の下にコーティングして来たのではないでしょうか。そう言えば戦後の私達は悩む人を暗いといって遠ざけ、死の問題を縁起が悪いとお払いして何か表面的な明るさだけを追い求めて来たように思います。そういう結果がいのちの質感と現実感覚を喪失した現代日本の軽さなのです。現代人は重い問題を持続的に担うだけの体力を喪失してしまいました。それゆえ何かの問題に遭遇した場合、それについて深く考える事を放棄して安易な答えだけを外に求めているように感じるのです。
 このような状況にあって、しかし念仏の教えこそ死の問題から逃げることなくそれを往生の問題として考え、人間の苦悩を紛らかすことなくそれを自己の罪業として受け止めながらこの困難な時代の中で脈々として聞き続けられて来たように思うのです。
 この間、石川県の小松に行ってお話をして来ました。その中のあるお年寄りが(このごろお寺は年寄りが行くものだと思われているが、私達は三十、四十代から聞き続け今の年になったのだ)と語られていました。それを聞いて仏教を学ぶとは問いを学ぶことなのだ、と改めて思いました。仏教を学ぶことによっていよいよ明らかになるのは答えではなく自分の問いなのです。中には仏法は聞いてもすぐ忘れるという方も居られますが、すぐ忘れても自分の問いは忘れられんはずです。
 問いとは何んでしょうか。それは自分自身が問題となることなのです。その問いに答え得るのは自分自身が法に言い当てられる以外にないのだ、と思います。
 「洪鐘響くといえども、かならず叩くを待ちてまさに鳴る」という言葉があります。お寺の大鐘も叩かなければ鳴らないという意味です。人生の問いに叩かれてはじめて教えが聞こえて来るのです。
 さて、時間も限られて来ました。ここで最後に考えてみなければならない大切なことがあるのです。それは自分が問うのは自分自身が問いかけられているからではないか、ということです。問われているからこそ問うのです。自分に問いかけて来るもの、わたしはそれを阿弥陀仏の大きないのちからの呼びかけとして耳を澄ましたいのです。人生とはこんなもんやと言いながら安易な答えに腰を据えているわたし達に「そこに、とどまるなかれ」という仏の願いが響いて来ます。それを聞いたら問わずはおれません。この意味で問いとは「もっと悩みなさい、そしてもっと前へ進みなさい」という如来の励ましの声だと、思うのです。

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