ラジオ放送「東本願寺の時間」

埴山 法雄 (高岡教区 聞願寺)
第1回 「今、いのちがあなたを生きている」 [2010.8.]音声を聞く

 おはようございます
 浄土真宗を開かれた親鸞聖人の七五〇回御遠忌を明年にひかえ「お待ち受け」として様々な行事が全国各地で行われています。私たちがご遠忌をお待ち受けしているということはもちろんですが、その根本には宗祖親鸞聖人こそ私たちを長い間、多くの念仏者の方々とともに待っていて下さった。そのお心や生き方こそ現代を生きる私たちに呼び掛けていて下さっているのではないかと思います。そういう意味からすると親鸞聖人がどのような時代に生きどのような生涯をおくられたのか。そのご一生が現代を生きる私たちに何をよびかけておられるのかを尋ねてみたいと思います。
 親鸞聖人がお生まれになった時代は日本の歴史の中でも最も世の中が揺れ動いていた時代であったといえるでしょう。飢饉や餓死、天災やいくさが絶えることなく起こっています。親鸞聖人は特別大変な時代に生まれたのでそのご苦労が、深く道を求める心を呼び起こさせ仏道を歩まれたと思ってしまいがちですが、現代を生きる私たちはそのような激動の時代を生きていないといったり、また個人の自由といって勝手気ままにくらして何が悪いという言葉さえ耳にします。果たして本当にそうなのでしょうか。人の命を奪うことをなんとも思っていないような言動をする人が、老若男女を問わずに現れている一方、様々な悩みをかかえ自らの命を絶つ人は年間に三万人を超えています。世界各地で銃弾が飛び交い戦争が繰り返され、家を壊され土地を追われる人の姿が毎日届けられます。政治の腐敗と混乱、沈滞する経済問題、環境破壊など私たちの目の前にはこれまで人類が経験したこともないような歴史的な出来事が起こっています。親鸞聖人の時代だけではなく21世紀を生きている私たち自身の時代社会の現実もまた、大きく揺れ動いています。
 今を生きる私たちが抱える悩みや苦悩はこれらと密接に関わりを持っているにもかかわらず他人事になっていないでしょうか。もっといえば、私たちが生きる時代社会から人間として生きることの意味を問いかけられているだろうか。親鸞聖人の生きられた時代に優るとも劣らない悲しみや苦しみにあふれた時代に生きていながら、それに気づこうともせず、それに痛みを感じようともしないまま 「とりあえず」といいながら今を繰り返してしまっていることがあるように思います。悲痛にあえぐ人と平穏な日常をおくる人が隣あわせていてもお互いに気づく事がない。人が何を言おうと「自分は自分」と関係ないふりをする。人には関心を向けないくせに、自分には関心を向けてもらいたい、そんな姿が目につきます。
 こんな話があります。「熱湯に放りこまれた蛙はあまりの熱さに飛び出してしまうけれど、水の中からゆっくり温度を上げていくとやがて茹で上がって死んでしまう」という例えですが、現代を生きる私たちこそ茹で上がりつつある蛙のように日常に流され、もしかしたら苦悩する力さえ奪われてしまったのではないでしょうか。たしかに嫌な事から目をそらした方が気楽で生きていきやすいし、感覚を麻庫させなくては生きられないのかもしれません。時代の大波に翻弄されながらも隣の人や目の前にいる人の悲しみや苦しみに心を動かされる事もなく、人間として生きる意味を問う事もなく、また人として生まれて、生きる意味を感じることが出来ないまま時が過ぎ去っていく生き方を親鸞聖人は「空過(空しく過ぎる)」といわれます。
 親鸞聖人がお念仏の教えの先輩として尊敬された天親菩薩の浄土論という書物に、「仏の本願力を感ずるに、空しく過ぐる者はなし」という言葉があります。大体の意味を取りますと、「本当のことを明らかにする教えに出会ったものは、二度と人生を空しく過ごすということがない。という意味になります。親鸞聖人は何度も著作の中で引用され大事にされた言葉です。「空しく過ぐる者はなし」という言葉に強く引きつけられたのでしょう。裏返してみれば聖人ご自身が「空しく過ぎる」ということに深く苦悩され、その空しく過ぎることのない人生とは「本当のことを照らし出す教え」に出会うことによって実現するということを生涯を通して確かめつづけていかれた歩みだったのです。

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