おはようございます。
仏の教えは人間を「悩み苦しむものであり、迷いの中に生きる存在」とみています。このことに例外はありません。人間であるならば必ず苦しみの中に生きていると仏教では考えます。言い換えれば、悩みや苦しみがあるからこそ人間であるのではないでしょうか。
この苦しみ悩みのあり様を六つの道と書いて六道といいます。その一つ目「地獄」の世界は心身ともにたえず苦しめられているところです。その二つ目「餓鬼」の世界はつねに飢えて、ものへの執着に苦しみ、貪ることにより満足がないところです。その三つ目「畜生」の世界は自分のことしか考えられず、お互いに傷つけあっているところです。その四つ目「阿修羅」の世界はきりがなく怒るあまりに、自分も他人も許すことのないところです。その五つ目「人」の世界は理想と現実の狭間で引き裂かれているところ。最後の「天」の世界は喜びが尽き果てて、空しさのそこがないところです。この六道の世界のなかで一つでも思いあたるところがありませんか。仏教の人間観では、私たちはこの6つの在り方を繰り返しながら苦悩と迷いを重ねているとしています。そしてその問題を解決することこそが仏教が課題とするところなのでしょう。
たとえ一つの悩みや苦しみが消えてもすぐに次の悩み、そして別の苦しみがやってきます。苦悩と悩みが根本から解決しない限りは、苦しみ悩みの対象が変わるだけで、同じことを繰り返していくでしょう。解決するといっても苦悩や迷いをすべて消し去ってしまうことではありません。もっといえば決して消え去ることはないといってもいいでしょう。中には「私は悩んだり苦しんだこともなく、迷いはありません。」といわれる方もおられるでしょう。が仏教の人間観からすると、たまたまその人が苦しみ悩み、迷いの中にいることに気がついていないだけなのではないでしょうか。親にはぐれて迷子になっても、周りにオモチャや食べ物があるために気がつかないようなもので、ふとしたことで迷っていることに気がついて泣き出します。迷いの中にありながらその迷いに気づいていないことを親鸞聖人は明かりが無いと書き、「無明」といいます。だから苦みや悩みに出会っていないようにみえるだけで、少し周りの状況が変わっただけでたちまち苦悩の縁に立たされます。いってみれば苦悩する時限爆弾を抱えているようなものです。そういう意味では、苦しみや悩みがあるということは人間の「因(しるし・たね)」でもありますし、「証(あかし)」なのです。
仏教は人間が人間である限り抱え続けていかなければならない多くの苦しみや悩みに向き合う智慧を説き、その問題を根本から解決する道を求めつづけ人を生み出してきた教えなのです。私たちは問題を解決してしまった人が偉いと思いがちですが問題に向き合い解決する道を求めようと思い立って求めつづける人が生まれる事が尊いのではないでしようか。維摩経というお経にある「高原の陸地に蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず」(清潔な高原にハスの花は咲きません。どろどろと汚い泥の中からこそハスの花が生まれてきます。)という文章を親鸞聖人が大切にされているのも、親鸞聖人ご自身がその心にふれられたのでしょう。蓮華、ハスの花は決して清らかな高原に咲く花ではありません。泥まみれの中から綺麗な花を咲かせるのです。誰も好んで泥沼の中に立ちたいとは思いませんが、汚れた場所に咲くがゆえにその花はより一層輝くのかもしれません。そしてそれは不思議としかいいようのない出来事でしょう。
「浄土真宗は弥陀一仏」といわれます。そのご本尊阿弥陀如来もハスの花の上にお立ちになっておられます。阿弥陀如来となられるまえのお名前は法蔵菩薩であり、その法蔵菩薩が長い間ご苦労し願ってくださったところは、実は蓮華の花が咲こうとするドロドロとした欲望にまみれた汚らわしいとさえ思える世界の真っ直中ではないでしょうか。私たちのどうしようもない現実生活やその中にあっての苦しみ悩みこそが仏の道として開かれていく人生となるのではないでしょうか。私たちはそういう人に出会うことによって、自分は誰とも比べる必要のない、誰とも変わる必要もない「尊い私」として人生を歩もうとする意欲がおこってくるのではないでしようか。