ラジオ放送「東本願寺の時間」

埴山 法雄 (高岡教区 聞願寺)
第5回 「今、いのちがあなたを生きている」 [2010.8.]音声を聞く

 おはようございます。
 私たちは小さい時から様々な教育を受けて成長します。学校での教育は社会に出た時に役立つよう学びますし、社会人となれば社会に通用する人間となるように学びます。もっと広くいえばいろんなところで様々な学びをしています。浄土真宗の場合、法を聞くと書く「聞法」ということが大切といわれます。しかし、「聞法」は多くの言葉を覚え理解するということではありません。またその覚えたことで自分に満足したり人々に自慢したり、そういう自分に安住しようとすることでもありません。
 「聞法」ということを考える上で、親鸞聖人は教行信証という書物のなかで、理解の解に学問の学と書く「解学」と、行う学と書く「行学」として確認しておられます。「解学」とはいろいろな知識を身につけて理解したり、能力を高めたりして、仏様の道の世界を知って行くことです。「行学」とは行を学ぶこと、つまり自分がどう生きるか、その意味で自分の生き方を学ぶということでしょう。このことを考える時、私は、はじめての受験を間近に控えたある子どもの言葉を思い出します。その子は、親に対して「どうしてもっと頭のいい子に生んでくれなかったの。どうして可愛い子に生んでくれなかったの。どうして頼みもしないのに生んだの。」というのです。そんな問いを投げかけられた親に対して、よくある答えは「そんなに心配することはないよ。そのうち時間が解決してくれるよ」というようなものでしょう。それに対して私は長い間なにか納得のいかないものを感じていました。しかし、ふとしたことで私なりに気がついたことがありました。つまり、ここで子どもが親に尋ねているのは、社会や世の中といった、つまり大人の世界では人の値打ちを頭のよい子、可愛い子、元気で優秀が良くて、そうじゃないものは駄目だということで推し量る「ものさし」が通用しているのではないか。そういうことで人の値打ちをおしはかる世の中に向かって立ち尽くしている私を、背中にかばって立っているのか、反対に世の中の「ものさし」を背中にして私の方を向いているのか。こういうことがはじめての受験を控えた子どもからその親に対して問われているのではないかと思います。
 親鸞聖人が生まれられた時代には、輪廻転生の考えを元に高い身分に生まれたものは前世で善いことをしたのだといい、低い身分に生まれたものは前世で悪いことをしたからだというように、生まれ出た身分が前世での行いを示すというような考え方があり、それによっていわれなき差別を受ける人も大勢いたのです。「頭がよい」「かわいい」「元気」といった「ものさし」で、生まれたいのちを測るならば現代も変わりがないことになるのではないでしょうか。しかし、受験を控えて見えはじめた大人の世界に対する不安や不信は、もはや大人たちには見えなくなって片付けられてしまいます。私たちもいつの間にか無自覚に様々な価値観や「ものさし」をもって生きているのでしょう。しかし、その「ものさし」を確かめることなく様々な関係の中で苦しみ悩みを繰り返しているのが私たちの現実の姿ではないでしょうか。そして、自らの「ものさし」を間違いないものとしているがために、周りがみえず、他者との関係がみえず、この人生において確かなものに出会う事がないならば、この人生は空しく過ぎていくでしょう。
 他者との出会いを果たしとげる事がないならばこの人生は意義を失うでありましょう。そういう私に親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」(正しい教えを聞き、聞いたことを元に考え、それを怠ることなく実行に移しなさい)とすすめられます。「聞思」とは聞き思うと書きますが、ここでいうならば、自分が持っている「ものさし」が間違っているものかも知れないという呼びかけを聞いていけ、そして、聞いたことを通して考える自分を確立せよということでしょう。その上で、「聞いたことにうなずいて一歩前へ出よ」と呼び掛けておられる気がしてなりません。

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