ラジオ放送「東本願寺の時間」

埴山 法雄 (高岡教区 聞願寺)
第6回 「今、いのちがあなたを生きている」 [2010.8.]音声を聞く

 おはようございます。
 私たちは自分の目で数限りのないほどのものを見てきました。そして、人間の眼で見えたものが確かなもので絶対的なものだと思い込んできました。しかしながら、親鸞聖人も大切なものを見ようとしてこなかった、本当のことを聞こうとしてこなかったという驚きをそのお書き物のなかで端的な言葉でおっしゃっておられますし、本願寺八代目の蓮如上人も「人の悪きことはよく見うるなり、我が身の悪きことは覚えざるなり」とおおせられているように、人のことはよくわかるのですが、自分のことになるとわからないばかりか悪きことは覚えにないといわれます。
 そのことを考えると、人間の知恵を重ねどれだけ賢くなっても自分自身が納得していけることにはならないでしょう。そういう私に親鸞聖人は『唯心鈔文意』というお書物の中で「かたちもましまさず、いろもましまさず、阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし」とおおせられます。簡単に意味をとると、阿弥陀仏は形も色もないので人間の眼で見ることはできません。しかし、光が暗闇を照らすように、われわれのおろかさを明らかにする仏の智慧のはたらきとしてあるということでしょう。ある和歌に「われよしと 思う心のはずかしさ 照らされて知るこの心かな」というものがございました。お念仏の世界とはこういうように、「私がよい」という心が恥ずかしいものだと知らされるものではないかと思います。つまり、一生かけていまあるわたしのあり方を知らされつづける歩みではないでしょうか。人は人間に生まれこの身を知らされた時、知らされた「いのち」の中に深い感動と喜びをもちます。ひとごとではなく自分自身がいただいた「いのち」に深い感動がわいてくるのではないでしょうか。昨今の満々たる豊かさの中で自分自身に目覚め自分自身を見出す感動や「いのち」の実感があまりにもなくなり、「何となく生きている」とか「しょうがないから生きている」という言葉に反映されるように「生きている手応え」とも言えるものがなくなりつつあるように思います。本当は「生きている実感」を求めるものが内面にはあるのでしょう。
 阿弥陀如来の智慧の光に照らされてはじめて、この身は心を煩わし身を悩ます煩悩がそなわっているという今ある私のあり方がわかるのでしょう。人間の知恵では自分が間違っているということは気がつかないので、あいつがわるい、こいつがわるいといい、ある時は教育や行政がわるい、と自分以外を悪いものとして自分を善人として見ていますが、自らの足下にはなかなか気がつきません。私たち人間は、生まれてきたそのままでは、真の意味では人間であるとはいえないのでしょう。「いのち」の中に、かえりみて自ら深く恥じることや、いたみを感じた時、はじめて人間が誕生するのではないでしょうか。
 仏さまの教えの世界というのは、わかるわからないではなく、深く深く体に染み入ってくる。しみじみと感じてくるものなのでしょう。煩悩がなくなるのでもなくのでもなければ、苦しみや悩みがなくなるというのでもありません。人間の知恵では足下が見えてきません。自分のちからでは足下が見えてきません。仏さまの教えの光に照らされ、これまでのあり方が転じてはじめて起こる「あゝそうだったのだ」といううなずきから始まるのがお念仏の世界ではないでしょうか。「光明」として自分自身が見えなかったものを照らし出し、なむあみだぶつの「名号」として忘れていたものを呼びかけ、呼びかけられてはじめて自分に帰ることができるのではないでしょうか。私の生活全体の中で照らされ「ナムアミダブツ」として仏さまの願いがはたらいて下さっているのではないかといただきます。

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