おはようございます。
現代は数多くの宗教が乱立しているからでしょうか、本来は迷いや悩みから人を救うであろう宗教が、逆に迷いや悩みの種になっていることがあるように思います。親鸞聖人が作られた和讚というお詞の中に「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」というものがあります。ことを決めるのに日の善し悪しにとらわれ、天の神・地の神におびえるがゆえに尊び、占ったりお払いをする私たちの内面の姿を仏の教えの道を歩む者として、また人生を生きる者として親鸞聖人は「かなしきかな」と受け取られています。
現代では自然科学が発達し正確な情報が手に入るからそんな事には迷わないと思われるかもしれません。しかし、宗教が迷いや悩みの種になるというのは、人間の迷いは底がなく宗教を求めていながら宗教に迷うということなのでしょう。それは煩悩の「貪欲」は宗教さえも自らの願望や欲望の対象にしてしまうからなのだと思います。一目で偽者と分かるようなものには迷うということはありません。限りなく本物にちかいものにこそ迷うのでしょう。いいかえれば、自分の思いや願いをかなえてくれるものにこそ迷うのでしょう。このことを親鸞聖人は「金の鎖」といわれます。金の鎖につながれているとき、その金の魅力に取りつかれてそこが牢獄であることも忘れてしまう。私たちは魅力のないものには迷いません。魅力のあるものに迷うのです。自分で期待しているものが手に入るとそれを疑うこともなく信じてしまい、それが迷いであるということに気が付くことも難しくなるでしょう。そればかりか私たちはそれに繋がれていることを慶びとさえ感じてしまうでしょう。
大無量寿経というお経の最初に人を仏道に導くはたらきをする普賢菩薩の姿が描かれていますが、そこに「以不請之法 施諸黎庶」(請せざる法をもってもろもろの黎庶に施す)とあります。請せざるとはまねかざるという意味で、黎庶とは特別の地位や能力のない普通の人々のことをいいます。つまり菩薩は人々に仏教を伝えようとしますが、必ずしもそれは歓迎されるわけではない、私たちの思い通りになる形で仏教を伝えないという意味です。耳に心地のよい言葉には人は安心します。しかし、その言葉によって考えさせられたり心が揺らいだり、また自分の思い込みが破られたりすることはないでしょう。それによって目覚めることもありません。耳にいたい言葉こそが現実に埋もれ現状に安住する私の心を揺さぶり目覚めさせてくれる「ことば」ではないでしょうか。
以前こういうお話を聞かせて頂いたことがあります。真宗大谷派の大学を卒業して、郷里のお寺で布教活動を懸命にしておられた方が久し振りに恩師であり、在野にてお念仏の教えを深めていかれた安田理深先生を訪ねられて「真宗の教えがよくわかるようになりすっきりといたしました」という意味のことを申されたそうです。そこで安田先生は「もっともっと悩まねばなりません。人類の様々な問題が私たちにのしかかってきているのです。安っぽい喜びと安心に浸るような信仰に逃避していることは出来ません。」と言葉を残されたと聞きます。そして、問題が解決できたということに浸りこむようなあり方を「安っぽい」と戒められ、そういうあり方を否定していくのが真宗の教えだとおっしゃられました。「安っぽい信仰」といわれるのは欲望、中でも「貪欲」という煩悩を満足させる信仰でしょう。安田先生のこの言葉は法語となって今日でも多く目にすることがあります。この言葉の意味はこのようなことかと思います。つまり、私たちは苦しみや悩みを無くしてもらうことを救いと思っていますし、またその苦しみや悩みがある事は駄目な事と思っているので、その心を無くして悩まない生活を望むことでしょう。
しかしそれでは仏さまの教えは私にとって自分の欲望を満たす都合のよい物でしかありませんし、利用しているのに過ぎないことではないでしょうか。そうではなく、親鸞聖人のあきらかにされた浄土の真宗つまりお念仏の教えは人間を目覚めへと導く教えとしての仏教なのです。