ラジオ放送「東本願寺の時間」

小川 一乘 (北海道 西照寺)
第1回 仏教語としての「いのち」 [2010.10.]音声を聞く

 おはようございます。
 来年3月から宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の法要がいとなまれます。そのテーマは、「今「いのち」があなたを生きている」です。このテ一マの主語は「いのち」です。この、「いのち」という言葉に基づきながら、真宗を開かれた私ども大谷派の宗祖親鸞聖人の教えについて尋ねてみたいと思います。
 仏教では、「いのち」という言葉は、どのような意味で使われているのでしょうか。ほとんどの場合、それは「寿命」という意味です。阿弥陀如来のことを「はかりしれない寿命をもつもの」ともいいますが、仏教における「いのち」とは、この寿命のことです。
 それでは、私たちの生まれて死んでいくこの「いのち」、すなわち寿命について、どのように仏教は見定めているのでしょうか。この「いのち」についての仏教独自の理解がお釈迦さまによって説かれています。
 ところで、お釈迦さまが生まれた当時のインドでは、この生まれ死んでいく「いのち」に対する考え方はどのようであったのでしょうか。当時のインドでは、自らのおこないの報いを受けて死に変わり、生まれ変わりを永遠に繰り返しているのが私たちの「いのち」であるというのが常識となっていました。そういう時代にお釈迦さまは誕生したのです。
 このような「いのち」への考え方と、現在の私たちの考え方とを比べてみますと、「いのち」は、私が生まれたときに生まれ、私が死ぬときに死ぬというのが、現代人の多く、私は無宗教ですと言っている人の基本的な「いのち」の理解の仕方だと思います。「いのち」を生命という物質的な存在と見なして、それを科学的にのみ理解しているのです。このような理解の仕方によれば、「いのち」は私の所有物となっています。そういう理解は、欧米の自我の思想によって成り立っていると思います。「私のいのち」として、自我が「いのち」を所有しているのです。ですから、私の「いのち」は私のものだから私の責任において自由にできると、そういうような理解が至極当然のことのように成り立っているわけです。それが現代人の一般的な考え方ではないでしょうか。
 ところが、私の「いのち」は、私が生まれたときに生まれ、私が死ぬときに死ぬという、現代人の現世主義的な「いのち」への理解は、現代人自身によって最近、疑問視され始めているのではないでしょうか。少し前に『葉っぱのフレディ』という絵本や『千の風になって』という歌が話題になりました。そこには、物質としての「生命の循環」が、美しく語られていました。自分の「いのち」は終わるのではなく、また元素に戻って姿を変えて次の「いのち」に役立つのであると語られたり、或いは、死んだ人は、風となったり朝日となったり夜の星となったりして、あなたを見守っているのであって、死んではいないのだと、そのように語られていました。
 これはどういうことかと言いますと、現代人は、現世主義に立って、「死んだら終わり」と考えている一方で、亡くなった人とのつながりが切れてしまう、また、死後に自分の存在が虚無となってしまう、そういうことに堪えられなくなってきているのではないでしょうか。

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