ラジオ放送「東本願寺の時間」

小川 一乘 (北海道 西照寺)
第6回 阿弥陀如来の「いのち」 [2010.10.]音声を聞く

 おはようございます。
 これまで5週にわたって明らかにしてきましたように、私たちの生まれ死んでいく「いのち」は、「縁起するいのち」なのです。それに対して、阿弥陀如来は、無量寿如来ともいい、その意味は寿命がはかり知れないというものです。では、寿命すなわち、いのちがはかり知れないと名づけられている「阿弥陀如来のいのち」とはどのようなものでしょうか。「阿弥陀如来のいのち」とは、私たちの「縁起するいのち」と同じものなのでしょうか。もしかしますと、「阿弥陀如来のいのち」を私たちの「縁起するいのち」と同質のものと考えてしまい、如来の「いのち」は大きくて無量であり、私たちの「いのち」は小さくて限りがあるというように、大きいか小さいかの関係、たとえば、全体と部分との関係とか、大宇宙と小宇宙との関係とかで考えたりしていませんでしょうか。たとえば、「縁起するいのち」として私たちの「いのち」を包み込み支えてくれているのが「阿弥陀如来のいのち」であると理解したりしていないでしょうか。しかし、「阿弥陀如来のいのち」は私たちの「縁起するいのち」とは同じ次元であるはずがありません。それでは「阿弥陀如来のいのち」とは、何を意味しているのでしょうか。
 すでにご承知のように、阿弥陀如来は「無量なる寿命をもつもの」と名付けられているわけですから、その寿命は無量なのです。仏教では「いのち」とは基本的には「寿命」という意味ですから、「無量なる寿命」とは「無量なるいのち」ということです。私たちの「いのち」は、生まれ死んでいくものですから、無量ではなく、限りある寿命です。それに対して、阿弥陀如来の寿命は無量であるというのです。無量とは、どういうことでしょうか。量というのは、量るということですから、私たちのものを量る知識では間に合わないというのが無量ということでしょう。
 そうしますと、阿弥陀如来の「いのち」はなぜ量られないのでしょうか。それについて、『阿弥陀経』というお経の中に、その理由が説かれています。その内容の要点は「阿弥陀如来の寿命は無量であり、私たち衆生の寿命の量も無量であるからである。」というものです。ここには、衆生である私たち一人ひとりの寿命は限られたものですが、その数は計り知れないほどいるため、合計した寿命ははかり知れないものとなり、その計り知れない衆生たちの寿命と同じく、阿弥陀如来の寿命もはかり知れないと説かれています。なぜなら、すべての衆生を「縁起するいのち」に目覚めさせる、その衆生の量が無量であるから、それが尽きるまで、すなわち、すべての人々が「縁起するいのち」に目覚めるまで、阿弥陀如来の「いのち」となっている慈悲は、はたらき続けるというからです。つまり、阿弥陀如来は、私たちすべての人びとを目覚めさせずには、おかないというはたらき、すなわち、慈悲をその「いのち」としているのです。それが阿弥陀如来の本願です。この度の御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」という、このテ一マの中の「いのち」とは、私たちが「縁起するいのち」に目覚めることを願い続けている、本願・慈悲を「いのち」としている「阿弥陀如来のいのち」のことなのです。

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