ラジオ放送「東本願寺の時間」

小川 一乘 (北海道 西照寺)
第3回 無我なる「いのち」 [2010.10.]音声を聞く

 おはようございます。
 先週お話しましたように、私たちの「いのち」は、無量無数、数限りない因縁によって、ただ今のこの瞬間を生きているという、「縁起するいのち」としてありえているというのが仏教の「いのち」の捉え方です。そのことについて、たとえば、私が今ここで話をしていますが、話をしているこの瞬間にしか私は存在していないのです。そして、話をしている私を成り立たしめているのは、私がこれまでの人生の歩みのなかで仏教に出会い、真宗の教えに出会い、親鸞聖人に出会ってきたという「いのち」の歴史です。しかし、もっとも大事なのは、今ここで話をしているこの瞬間を成り立たしめているのは、私の話を聞いて下さっているであろうみなさん方との関係によって成り立っているということです。このように、お釈迦さまは、私たちがこの世に生まれた瞬間からただ今の瞬間まで、他と無関係に単独で存在したことは、一瞬たりともあり得ないと説きます。
 私たちは「私が生きている」と思いこんでいるけれども、そうではなく「生かされている私」なのです。自分の都合の良い因縁だけを選び取り、都合の悪い因縁を排除するということはできないのです。自分の思いどおりに生きよう、生きようとする自我が何度も打ち砕かれていったときに、「生かされている私」という、ただ今の私のあり方が明らかになるのです。そこにそれを必然的なことであったと引き受けていける世界が開かれてくるのです。
 しかしそこには、やっかいな問題があります。それは、「縁起するいのち」という事実に目覚めても、その通りには生きていないという私の現実があることです。やはり「私が生きている」という思いこみに縛られている私がいるという大きな問題があるわけです。そのことを厳しく問題にしたのが親鸞聖人です。
 このことについて、親鸞聖人は『歎異抄』によれば、「様々な因縁によって生かされているのですから、因縁のままにしか生きられない」といただいています。これが「縁起するいのち」ヘの目覚めです。つまり、「生かされている私」であるから、自分の思い通りには生きられないということです。自分の思いのままに、善いおこないをして、悪いおこないをしないようにしようとしても、善も悪も意のままにならないという、ただ今の私のあり方を引き受けて生きるということです。
 これが、「縁起するいのち」のままに「生かされている私」であるという事実への目覚めです。しかし、私たちは自我に縛られて、なかなかそのようには生きられないのです。「私」という自我がある限り、歳を取るのは嫌だ、病気になるのは嫌だ、死ぬのは嫌だと言って、それらから逃げまわり、苦悩して生きている私たちの現実があるわけです。その自我の束縛から解放された在り方を涅槃と呼んでいるのです。涅槃とは、生まれ、年をとり、病んで、死んでいくという根本的な私たちの苦悩から解放された在り方です。
 なぜならば、生まれ、老いて、病んで、死んでいくことに苦悩する「私」の自我は、本来的には存在していないという事実に目覚めたならば、その苦悩から解放され、それらが苦しみでなくなるのです。そのとき、「私が生まれる」のでもなく、「私が老いる」のでもなく、「私が病気をする」のでもなく、「私が死ぬ」のでもなく、「縁起するいのち」のままに「生かされている私」がいるだけなのです。すなわち、私たちは「縁起するいのち」のままにかりそめにこの世に身を置いているのですから、歳を取ったり、病気になったり、死んでいくような「私」という自我はもともと存在していないのです。そのように、お釈迦さまは説かれているわけです。

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