おはようございます。
これまで4週にわたって私たちが死を迎えることによって、お釈迦さまによって明らかにされた「縁起するいのち」つまり、さまざまな関係の中で因縁のままに存在しているいのちが、ゼロに帰っていく、完全にそれら因縁が消えていく、それが涅槃の世界であり、それを浄土と言うのであるということをお話してきました。したがって、浄土とは、いわゆる、今のいのちが終わった後の死後の世界のことではないと言えると思います。その浄土へ私たちを導きたいと願っているのが、阿弥陀如来なのです。そのような阿弥陀如来の願いのことを本願と言うのです。その阿弥陀如来の本願に導かれて、私たちはそこに生まれようと願う者となって、そこに往生したとき、そのとき、完全な涅槃が実現されていく道がお念仏なのです。
このように、私たちの上に完全な涅槃が実現されるとき、それは死ということと重なります。私たちはこの世において、「縁起するいのち」ヘの覚めを頂きながら、命が終わる最後の瞬間まで、それを実現できないでいるわけです。それをどのようにして自己完結せしめるかという、その問題を解決したのが浄土思想なのです。
このことについて、親鸞聖人の『自然法爾章』と通称されているお手紙が『末燈鈔』に収められています。これは親鸞聖人が八十六歳のときに書き残されたメモランダムのようなものではないかと思うのです。親鸞聖人の最晩年に書き残されたこの『自然法爾章』は、私は非常に重要であると思います。このなかに、私がこれまで説明してきました浄土思想についての親鸞聖人のいただきが示されております。そこでは、「阿弥陀如来の本願は、何のために説かれたのでしょうか。それは私たちを完全な仏さまにしようとするためです。完全な仏さまとは、私たちを私たらしめているすべての因縁が消滅した状態のことで、かたちで表すことはできません。それは「縁起するいのち」の自然の結果なのです。そのことを知らせようとして、阿弥陀如来とその本願という、具体的なかたちが示され、説かれているのです。」と、親鸞聖人は仰っています。ここには、「縁起するいのち」に目覚めても、目覚めたとおりには生きられないで苦しんでいる私たちのために、私たちを完全な仏さまにするために説かれているのが、阿弥陀如来の本願であることが示されています。このように、これが本願の目的なのです。そして、完全な仏さまと成ることが私たちの「縁起するいのち」の自然、すなわち、「自ずから然らしむ」という必然性であると説かれているのです。このメモランダムが親鸞聖人八十六歳のときに書かれたということは、私から言わせますと、これだけはきちんと書き残しておかなければならないと、そういう強い思いがあったのではないかと思います。まずはじめに、常に花が咲きにおい、妙なる音楽がながれ、光に満ちあふれた、そのような光景として浄土を表現し、そこに生まれたいと願わせるために阿弥陀如来の本願が説かれましたが、その目的は私たちを完全な仏さまとすることなのです。
親鸞聖人は『教行信証』を作成されて、思想的に論理的に浄土真宗の基本を明確にされましたが、その中で「このことこそが真宗の教えの本当の意味である」と明確に示しています。浄土真宗とは、「縁起するいのち」に目覚めながら、未だその通りに生きることが実現されていないすべての人びとが完全な仏さまになることを実現せしめていく念仏道なのです。