ラジオ放送「東本願寺の時間」

小川 一乘 (北海道 西照寺)
第2回 縁起する「いのち」 [2010.10.]音声を聞く

 おはようございます。
 先週取り上げました、科学的な物質としての生命の循環を物語る『葉っぱのフレディ』にしても、愛する人を失った悲しみを癒す『千の風になって』にしても、どちらにも特徴的なのは「死んでも死んではいないのです」という死への受け取りです。それは、私の「いのち」は、私が生まれたときに生まれ、私が死ぬときに死ぬという、現世主義的な「死んだら終わり」という現代人の死への受け取りが変化し始めていることの現れではないでしょうか。
 そこには、「如何に生きたか」という問題は問われていませんが、ともかくも、現代人は死を問い始めている、死を問わないままにしておけないという人間の不安を垣間見ることができます。
 それでは、仏教では、この「いのち」をどのように理解しているのでしょうか。私たちは日頃「私が生きている」と思い込んで、それを当然のこととしていますが、そうではなく、さまざまな因縁によって「生かされている私」であったという「いのち」への目覚めによって、お釈迦さまは、目覚めた者、すなわち、ブッダ、仏様と成ったのです。
 その目覚めを実現し、その内容を確認した経緯について、「縁起の道理ということを、繰り返し繰り返し思惟観察」されたといいます。つまり、縁起の道理についてとことんまで考えられたのです。そして、「私が生きている」のではなかった、「生かされている私」であったと目覚めたのです。
 私たちは「私が生きている」と思い込み、自分の思い通りに生きたいのです。「生かされている私」であるとは認めたくないのです。しかし、どうにもならない事実を目前にしたとき、それを認めざるをえなくなります。したがって、「生かされている私」という目覚めは、自分の思い通りにならない世界に身を置いているということへの自己発見でしょう。それをお釈迦さまは「縁起するいのち」つまり、さまざまな関係の中で因縁のままに存在している「いのち」と表現したのです。
 二千五百年も前に、お釈迦さまは、私たちの「いのち」を「縁起するいのち」として発見されたということは本当に驚きです。
 そうして、私たちの「いのち」は、さまざまな因縁のままに「縁起するいのち」であって、偉大な力を持った存在によって左右されるような存在ではないことを明らかにされたのです。そうすることで、私たちの幸・不幸を偉大な力を持つ存在に願うのではなく、人間自らの智慧によって「縁起するいのち」に目覚め、幸・不幸を引き受けて生きる力を獲得していくことができるのです。
 先週お話ししましたように、その当時のインドの人たちは、生まれ変わり死にかわりする輪廻の世界を永遠に流転しなければならないことに苦悩し、そこからどのようにして解放されるかを求めていたわけですが、輪廻に流転するような「いのち」などは存在せず、「いのち」とは、無量無数、数限りないと言ってよいほどの因縁によって成り立ち、それらの因縁が欠ければ、ただ消えていくだけである「縁起するいのち」であるという、お釈迦さまの説法に出遇って、輪廻の束縛から解放され、喜んだのです。
 仏教では、私の「いのち」を成り立たしめていたあらゆる因縁が消え去ったあり方を、あたかもローソクの火が吹き消されたときの静けさにたとえ、それを涅槃は寂静であると説いています。

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