おはようございます。
これまで三週にわたり詳しく説明してきましたように、私たちの「いのち」は、「縁起するいのち」、つまり、さまざまな関係の中で因縁のままに存在しているいのちです。ですから、老いぼれる「私」もなく、死に帰していく「私」もいないと、お釈迦さまは説いています。そのことについて、親鸞聖人が七人の高僧と崇められている、その第一番目の龍樹菩薩は、私たちの「いのち」はゼロ的存在であると説明しています。因縁のままに、いま「生かされている私」ですから、本来的には私はゼロであるということです。このことに関して、龍樹菩薩は、お釈迦さまが亡くなった後も存在するかどうかという問いについて、次のように、
本来的にゼロであるお方について、お釈迦さまは死後に存在するであろうか、死後に存在しないであろうか、などと考えるのは不合理である。
と述べています。これは「いのち」は、「縁起するいのち」であるという、「いのち」ヘの見定めから出てくる理解です。したがって、ゼロから生まれてゼロに帰っていくのです。他の宗教と仏教が決定的に違うのは、「いのち」に対するこのような見定めが基本となっていることです。
お釈迦さまが明らかにされた「縁起するいのち」に目覚めた人、すなわち、自分の思い通りに生きたいという自我によるすべての束縛から解放された涅槃をわが身の上に実現した人は、因縁のままに自由自在に生きることができます。しかし、涅槃をわが身の上に実現できない私たちは、死ぬ最後の瞬間まで自分の思い通りに生きたいという煩悩にまみれて生きています。そういう私たちにとっては、すべての煩悩が静まった涅槃ということは、死の瞬間ということと重なっていきます。このために、私たちは厄介な落とし穴に陥るのだと思います。
浄土というのは、「縁起するいのち」のままに生きることが実現されている世界です。それが私たちにとっては、死と重なってしまいます。しかし浄土は、死後の世界ではないのです。浄土とは、お釈迦さまによって明らかになった「縁起するいのち」そのままの世界なのです。私たちが、この世の「いのち」を終える、その瞬間に必然的に「縁起するいのち」が、浄土に往生していくということなのです。そうすると、私たちの「縁起するいのち」がそこにおいて自己完結する瞬時の場であると同時に、死後という問題の解決にもなっていくと言えると思います。すなわち、死んでも何かのかたちで残るのだろうか、死んだらどうなるのであろうかというような死後への恐れが解決されるわけです。そういう二面性を持っているのです。これは、やはりお釈迦さまの教えの卓越したところであると思います。
私たちは、自分の思い通りに生きたいと苦悩しながら、現にいま「縁起するいのち」を生きているのです。そういうありかたを、親鸞聖人は、浄土への道を歩む者であるというのです。そういたしますと、本来ゼロであるべきこの身が、さまざまな因縁によって「縁起するいのち」を生きながら、自分の思い通りに生きようとして苦悩しているただ今この瞬間を生きているわけですから、その苦悩の人生が尽きていく、そこにおいて自分の思い通りに生きたいという自我による苦悩が消滅して、涅槃が実現されていくのです。この事実に立って、私たちは、「縁起するいのち」を生きている者という自覚によって、浄土に往生したいと願って生きる者となる道が開かれているのです。