おはようございます。今回から6回にわたってお話をさせていただくことになりました、滋賀県長浜市の佐藤と申します。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
今朝の、1回目のテーマを「今、勤められている、湖北の御仏事」といたします。湖北という字は、琵琶湖の湖という字と、北という字を書いて湖北と申します。
毎年、年末の12月26日から1月8日にかけて、湖北地域では「御越年」、「おん」という字と、年を越すという「えつねん」という字を書いて「ごおつねん」と呼びならわしている大法要が営まれます。今回は米原市の大鹿地区で勤めていただきました。
この法要の由来は、江戸時代の天明8年に京都の大火事によって、東本願寺の建物が消失したことに始まります。その時の御門首・住職は第十九代の乗如上人でありました。今までのように、全国の人々とともにお勤めをし、親鸞聖人のみ教えに出遇うことができなくなることを嘆かれ、ご病弱のお体にもかかわらず、全国をまわられ、信者ご門徒衆に建物の建て直しを依頼されたということです。それに応えて、天明の飢饉の後の混乱期ではありましたが、京都の本山にはせ参じて、昼は建築のお手伝い、夜は親鸞聖人のお話などを聞く毎日を過ごされたのです。
ところが、乗如上人は再建途中の寛政4年2月22日に49歳の生涯を閉じられました。次のご門主の達如上人が受け継がれて、消失から11年後に、立派な本堂が完成し、亡き父、乗如上人の御影(お姿の掛け軸)をお掛けして落慶法要が勤まりました。法要が終わっても、参詣した方々は乗如上人の御苦労やお話されたことを懐かしみ、その場を離れ難かったようです。
その姿をご覧になった達如上人は「それぞれ国元に帰っても、親鸞聖人のみ教えに出遇っていただきたい」と願われ、乗如上人の御影を全国の信者・門徒衆に36幅与えられたようです。我々の地域にはそのうちの二幅をいただきました。それは、享和元年1801年、今から210年前のことです。
先ほど申しました御越年法要は、ご門徒さんのお宅にて勤められます。この地域の伝統的な家屋は木造です。家屋の奥の方に床の間があり、その横には立派なお仏壇があります。それを真宗では、内なる仏さまという意味でお内仏と申します。そのお座敷を含む4つの畳敷きの部屋がふすまで仕切られており、そのふすまを取り払えば、まわりの廊下と合わせて、百人を超える人々がお参りできる大きな広間となります。床の間には乗如上人の二幅の御影をお掛けし、お内仏とともに立派なお荘厳・お飾りをして、その家の主人は裃の正装をして法要に臨みます。もちろん、近所の人々の協力が無ければ出来ません。
2週間の内、9日間は遠近各地からの参詣者でその広間はあふれ、午前と午後に近くの住職を招待して、親鸞聖人のお造りになった正信偈というお勤めの後、説教者からこの法要の由来や親鸞聖人のみ教えなどに耳を傾けます。休み時間には、参詣者どうしの話も弾みます。
最後の1月8日には、鏡餅を20枚お供えし、各地域の代表者が鏡餅を一枚ずつ持ち帰ります。二幅の御影は南回りと北回りに分けて、1月10日から各地域毎の「鏡割り法要」という法要をお勤めし、各集落にその鏡餅を切り分けます。各集落ではその餅に餅米を混ぜて餅をつきなおし、直径約6センチの薄いお持ちにします。これをお華束といいますが、それを積み重ねてお飾りして、各集落での法要を勤めます。
その法要は、南回りがほぼ3月末日まで、北回りは4月5月の農繁期をさけて、6月末日まで続き、湖北のほとんどの集落で勤められます。人々はこの法要を、乗如上人の命日にちなんで「二十二日講」とか「まわりぼとけさん」、親しみを込めて「乗如さん」と呼びます。
今年、いよいよ宗祖親鸞聖人750回御遠忌の年となりました。
親鸞聖人のみ教えを、さまざまな人々が、さまざまな方法で、今の私たちのところまで届けていただいているのですね。ありがたいことです。尊いことです。
次回もこの法要について話の続きをさせていただきます。
有り難うございます。