おはようございます。4回目の話をさせていただきます。滋賀県長浜市の佐藤です。
さて、普段お店でものを買ったり、食事をしたりする時などに、店員さんが「なになにさせていただきます。」というような言葉遣いをされることがよくあると思います。
今では、ごく当たり前の言葉遣いですが、作家司馬遼太郎さんの「街道を行く」というシリーズの「近江散歩・奈良散歩」によれば、「させていただく」という言葉は、浄土真宗の教えが元になっているのではないかということです。
少し引用をさせていただきますと、
真宗においては、すべて阿弥陀如来―他力―によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお陰でおいしくいただき、ときにはお寺で説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。
この言葉の使い方は、阿弥陀如来の絶対他力を想定してしか成立しない。
と、このように書いておられます。
この「させていただく」という言葉は、現在では、対面している相手に対しての言葉になっていることが多いのですが、本来は、私たちに関わるすべてが、阿弥陀如来からの賜りもの・頂きものという真宗の教えから出た言葉であり、真宗を信仰していた近江商人によって全国に広まっていったのだろうと、司馬さんは書いておられます。
近江商人について、滋賀県多賀町のある方から伺ったことですが、伊藤忠の初代の伊藤忠兵衛さんは、多賀出身の熱心な真宗門徒で、「仏さんの前で開けられんような帳面はつけるな」また、「他の全てを失っても、本当のお念仏の味、有り難さだけは忘れることのないように」と常々おっしゃっていたようです。
以前に聞いた事ですが、近江商人が行商に出かける際には、御本尊・阿弥陀如来の小さな御絵像(掛け軸)を巻き納めて荷物の上に置き、定宿で御本尊をお掛けして、朝夕の勤行をされていたことを伺いました。
また、別の方からは、近江商人は、売り手と買い手との聞に、仏さんを位置づけて、お商売は仏さんにさせて頂く。品物は仏さんを通じてお客さんに渡り、お代はお客さんから仏さんを通じて頂くと考えておられた、と伺いました。
そういう近江商人のお商売は、品物に対しでも代金に対しても誠実なお商売であっただろうとおもいます。そういう近江商人の姿に自然と信用が生まれ、お客さんも定着し、また新たなお客さんが増えることにもなったのでしょう。
京都の東本願寺の境内にある、宿泊研修の場である同朋会館で、山形のある先生から、「山形には、「おみづけ」というお漬け物があります。それは料理で出来た野菜の切れ端を見た近江商人が、勿体ないと言うことで塩と混ぜてお漬け物にしたもので、「近江漬け」が訛ったものです」と教えて頂きました。これを聞いて、やはり近江商人は信用を得て、全国へと歩かれたのだと思いました。
「三方よし」 という近江商人の言葉があります。売り手に良し、買い手に良し、世間に良しという意味だそうです。
こういう話を伺いますと、普段の生活において、阿弥陀如来の絶対他カのはたらきを忘れて、自分中心にものごとを考え、自分にとって都合の良いことを善や福として歓迎し、都合の悪いことを悪や鬼として遠ざけていることに気が付かされます。「鬼は外、福は内」と言われる「外」とは「となり」のことだと聞いたことがあります。都合の良くないことは「となりへ行って」ということなのでしょう。「となり」って、「となりの家」でしょうか?「となりの町」でしょうか?「となりの国」でしょうか?あるいは「となりの人」でしょうか?何か寂しい気持ちになりませんか?自分が勝ちたいと思うことは、他に負けて欲しいということでしょう。自分が得したいと思うことは他に損をして欲しいということにもなります。
孤独社会とか無縁社会と言われる現代です。他人との溝を広く深又している原因は、この自分中心のこころであったのでしょう。
阿弥陀如来からの呼びかけの言葉、「南無阿弥陀仏」のお念仏のはたらきで、恥ずかしい我が身であることを気付かせて頂きます。