おはようございます。
いよいよ宗祖親鸞聖人の750回御遠忌の第一期法要が1ヵ月後に迫ってまいりました。そんな今朝から6回にわたって「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマによせてお話をさせていただきたいと思います。
今から27年前のことになります。当時大学生だった私が、父に代わってあるお宅のお通夜にお参りした時のことです。亡くなられた方は享年80歳の男性でした。家族の方々とお通夜のお参りを終えた後に、喪主である息子さんから次のようなご相談を受けました。
「お寺さん、父は末期の肺がんで入退院を重ねていましたが、死ぬときは自分の生まれ育った家で死にたいと、見舞いに行くたびに言っていましたので、家族や親類で話し合い、主治医の先生にも無理を言って自宅に連れて来たんです。その際、私をはじめ父に最後の親孝行をしようということで、5人の兄弟達で、羽毛布団を買ってあげようという話になりました。結局、父はその布団に寝てから二週間しないうちに亡くなったのですが。実は相談というのは、その羽毛布団をどうしたらいいものかと」という内容でした。私は、その時点では相談の内容が今ひとつ理解できずに「ご自身がお使いになられたらどうですか」とお話したのですが、「いくら父親でも、死んだ人の布団には寝れない」ということでした。他の兄弟の方々も皆同じ意見だったようです。私はその様子を見て、「ならば、ごみに出すしかないですね」とお話させてもらいました。すると今度は「それも考えたのですが、とても高価な買い物だったので捨てるにはもったいない気がして。」と困惑した様子で話されました。そんな時でした。隣の部屋にいた3歳くらいの女の子が駆けて来て「大きいじいじのふとん、私が寝てあげる」と言ったのです。亡くなられた方のひ孫さんなのでしょう。それを聞いた周りの親族は口をそろえて「ダメ、ダメ」とその女の子をたしなめ、奥の部屋へと連れて行きました。結局、そのふとんは処分されたということを葬儀にお参りした父から聞かされました。
皆さんは、このお話を聞かれてどう思われますか?
昨年、そのお宅で27回忌の法事が勤まりました。当時学生だった私にとっても忘れられない出来事だったので、当時のことを話題にして法話をさせていただきました。お参りされている中には「私が寝てあげる」と言っていた曾孫さんも、今は二児の母親として参加されていました。私は、法話の中で「皆さんが、親孝行したいと思った気持ちも、たとえ父親であっても息を引き取った布団では寝たくないと思う気持ち。さらには高価な買い物だったので捨てるのはもったいないと思う気持ち。いずれも同じこの自分が思ったことに違いはありません。亡くなられたお父様は、とても大切な問いを皆さんに投げかけておられるのではないでしょうか」というお話をさせていただきました。
仏教では、本来、死を穢れとする考え方はありません。「生死一如」生と死は一つの如しという言葉がありますが、まさしく生きることは死ぬことであるとお教えくださっています。私たちのいのちとは生きるいのちであると同時に、死んでいくいのちでもあるのです。しかし、いつしか生きるいのちのみが重要視され、死にたくないという思いが、死を穢れとして捉え、現実から眼をそらさせることになってはいないでしょうか。自分にとって大切な人であるならば、生きているうちも、死んでからも大切な人であることに違いはないのだと私は思います。27年前、大人たちが困惑している中で「私が寝てあげる」と無邪気に言った幼子の姿は、大切なことを教えてくれているのではないでしょうか。