おはようございます。
最近、中学3年生になる次男とテレビを見ながら会話をしていたら、「お父さん、そんなの今どきあたりまえだよ」と言われたことがありました。私は「そうか。あたりまえなのか」と言葉を返しましたが、何か釈然としないものを感じました。
このように、私たちはこの「あたりまえ」という言葉をさまざまな場面で使っているのではないでしょうか。
今朝は、この「あたりまえ」ということについて、お話したいと思います。
皆さんは「湯水の如く」という表現をご存知かと思います。たとえば「湯水の如くにお金を使う」という場合には、際限なくお金を使うという意味となります。日本のように水という資源に恵まれている国々では、それこそ水はあってあたりまえという感覚なのでしょう。
しかし、雨のほとんど降らない地域にとっては、水があるということは決してあたりまえではありません。サハラ砂漠などで知られるエジプトでは、年間を通じてほとんど雨が降らないそうです。実は、そんなエジプトの国にも私たちが使っている「湯水の如く」と同じような表現方法があるということを以前に聞いた事があります。先ほど紹介した「湯水の如くお金を使う」と表現した場合、エジプトでは「湯水のように大切にお金を使う」といった意味となるそうです。このことから、同じ言葉であってもそこで使われている意味はまったく正反対であるということが分かります。
これと同じようなことが、私たちの周りにも沢山あるのではないでしょうか。自分ではあたりまえと思っていることでも、周りの人から見れば、決してあたりまえではないということが沢山あります。あたりまえという言葉で自分を肯定しようとするあまり、周りの人たちを否定したり、傷つけてしまっているということになってはいないでしょうか。
そして、何よりあたりまえという感覚は、私から真実を見据える眼というものを奪ってしまうように思えてなりません。
健康な人であれば、今朝目が覚めて朝を迎えたということも、ごくあたりまえのこととしか捉えることは出来ません。しかし、その健康を失った時、はじめて健康でいることがあたりまえではなかったということに気づき、健康であることを心から喜べるものなのではないでしょうか。
現代社会は、医療技術や科学をはじめとして様々な分野でめざましい発展を遂げてきました。そうした中で、いつしか私たちは、生きるということ、いのちがあるということを大前提とし、それこそあたりまえのこととして、捕らえてきてしまったのではないでしょうか。
最初にお話した「湯水の如く」という言葉をあてはめて考えてみるならば「湯水の如くいのちを生きる」とした場合、日本人が用いている意味として自分のいのちと向き合ってきたのか、それともエジプト人が用いている意味として向き合ってきたのか、立ち止まって考えてみることが必要なのではないでしょうか。
「今、いのちがあなたを生きている」という、この度の宗祖親鸞聖人750回御遠忌のテーマも、私たち一人一人がどのような視点に立って考えるかによって、大きくその言葉の持つ意味が違ってくるように思います。
今日も新たな一日が始まりましたが、まずは何かひとつ、自分があたりまえだと思っていたことを立ち止まって考えてみてはどうでしょうか。