おはようございます。
今朝は人を裁くということについてお話したいと思います。
裁くといえば一昨年の五月からはじまった、裁判員制度を思い浮かべる方も、多いのではないかと思います。
この制度がはじまるとき、もし、あなたに裁判員依頼の通知が届いたらどうしますかという街頭インタビューに対し、多くの人達が「私などは、とても人を裁くなんて」と、消極的な答えをしたように記憶しています。
このように「人を裁くなんて」と思ってしまう私ですが、よくよく考えてみると、何も裁判員に自分が選出されるまでもなく、私たちは日常生活の中で、常に人を裁いているのではないでしょうか。「あの人が悪い」「あの人のせいで」と思うことがどれだけ多いことでしょう。私たちは自分の都合や身勝手な思いにまみれた眼で人を裁いているのだと思います。そんな私たちの姿をこう表現された方がおられました。
人は皆裁判官。他人は有罪、自分は無罪
仮に自分の非を認めた場合でも「確かに私が悪い。けれども」という具合に最終的には相手に非を押し付けてしまうのではないでしょうか。けれどもという言葉がついてしまうのが私の根性であります。私という存在は、常に人を裁き、そのくせ、人から自分が裁かれることを極端に嫌い、自分の中に問題を見出そうとはせずに、いつでも他を問題としているのではないでしょうか。
そんな人間の姿というものをよく言い表しているユダヤの格言に次のようなものがあります。
人は転ぶと坂のせいにする。坂がなければ石のせいにする。石がなければ靴のせいにする。人は決して自分のせいにはしない
いかがですか。まさに言いえて妙なる言葉ではありませんか。仏教の教えの中にも同じような意味を持つ言葉があります。
自是他非 多因自果
自是他非 自分がこれ、正しくて、他人が非、間違っている、
他因自果 他が因、他人が原因で、自が果、自分がその結果を受ける
すなわち、自分は正しい。相手が間違っている。自分がこうなったのは、相手のせいだ。という人間の姿を言い当ててくださっている言葉です。
こうして振り返ってみると、いかに私たちが自らのありのままの姿というものに頷いていく世界に身を置いていないかということを思い知らされます。
浄土真宗の教えに生きられた先人は、南無阿弥陀仏というお念仏の教えによって、この頷いていく世界、もっと具体的に申し上げるならば、頷かずにはいれない世界というものに出遇い、そのことを無上の喜びとし、いかなる境遇にその身が置かれようとも、生き生きとした人生を歩んでいかれたのではないでしょうか。
私の都合という便利な色眼鏡で周りを見ている限り、自分自身の力で自らのありのままの姿を見ることは出来ないのです。その色眼鏡をはずす事はとても難しいことですし、私たちは色眼鏡をかけている事にすら気がつかない生活を送っているのではないでしょうか。
そんな私を救いのお目当てとされ「わが名を称えよ」と常に呼びかけてくださるのが阿弥陀仏という仏様なのです。