ラジオ放送「東本願寺の時間」

園村 義成 (青森県 來生寺)
第6回 「供養するとは」 [2011.2.]音声を聞く

 おはようございます。
 4月に入り、私の在所である青森もだいぶ春めいてまいりました。そんな今朝は「供養するとは」と題してお話させていただきます。
 最近に限ったことではないのでしょうが、本屋さんに行くと「~ならないためにはどうしたら良いか」とか「~するためにはどうしたらよいか」という内容の、いわゆるハウツウ本と呼ばれる類の本や雑誌が実に多いことに驚かされます。そんな中で目を引いた一冊の本がありました。その見出しには「ご先祖様の上手な供養の仕方」と書かれてありました。
 私は、以前からこの「供養する」という言葉の意味が曖昧になっているのではないかという疑問を感じていました。ラジオをお聴きの皆さんは、供養するとはどのようなことを意味するものだと思いますか。
 世間で「供養する」とは、生きている私たちが亡くなられた方々に対して行なうもの、という意味で使われているように思います。このような意味において、供養するとは一方通行的供養という言い方だが出来るのではないでしょうか。
 つい最近も、法事にお参りしたお宅で「こうして法事を勤めることが出来て、亡くなった父もさぞや喜んでいると思います」という息子さんからの挨拶がありました。その後の会食の席で私はその息子さんに「お父さんが喜ばれる法事というのはどういうことなのでしょうね」と尋ねたら、息子さんは「お寺さんに有難いお経もあげてらったし、忙しい中を沢山の人にお参りしてもらって、本当にいい供養が出来たと思います。さぞや亡くなった父も喜んでくれていると思いますし、残された私たち家族もこれでひと安心です」と話されました。私はその言葉を受けて「いい供養が出来たとおっしゃいますが、いい供養とはどういうことなのかをしっかりと吟味してみることが、本当の意味でのお父さんの供養ということにもつながっていくのではないでしょうか」というお話させてもらいました。
 私は、この息子さんが話された言葉の中に、世間で使われている「供養する」という言葉の意味をあらわす、二つのキーワードがあるように感じました。それは、供養するという行為を「亡くなった人を喜ばせる行為」、「自分たちが安心できる行為」として受け止められているということです。
 本来「供養する」とは、生前中に様々にお世話いただいた方に対して「何かしてあげたい」という、ごく自然な感情から沸き起こる行為なのではないでしょうか。ですから、「供養しなければならない」という考え方よりも「供養せずにはいれない」という考え方にたって行われる行為なのでしょう。しかし、その純粋な感情もいつの間にかまったく別のものに変質してしまっているということに、多くの人が気づいていないのではないかと私は感じています。供養といえば真っ先に「先祖供養」という言葉を思い浮かべられる方が多いかと思いますが、先祖供養という行為も「ああしてください」「こうしてください」と、自らの願い事を叶えてもらうことを引き換え条件としてしまっているのではないでしょうか。
 「供養してあげたい」という純粋な思いも、時として「こんなに供養してあげているのに」と変わりかねないのが、私たち人間の偽らざる姿ではないでしょうか。私たちが供養する上で大切な心構えとは「亡き人を偲びながら 真実なる仏のみ教えに出会っていく」ことだと私は思います。
 供養するとは決して一方通行的な行為ではなく、亡くなった方を通して真実なる教えに出会わせていただくという双方向の関係となったとき、本当の意味での供養ということにつながっていくものなのではないでしょうか。

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