ラジオ放送「東本願寺の時間」

園村 義成 (青森県 來生寺)
第5回 「精進日」 [2011.2.]音声を聞く

 おはようございます。
 みなさんは、精進という言葉を聞いたことがありますか。そもそもは仏教に由来する言葉で、一生懸命に力を尽くすことや努力することを意味する言葉です。
 今朝は、この精進ということに因んでお話してみたいと思います。
 私はお寺の息子として生まれ育ちましたが、現在でも月に何度か「精進日」というものがあります。朝の食事は、元旦を除いては毎日が精進ということで、肉や魚料理が食卓に上ることはありません。さらに浄土真宗の教えを開いてくださった宗祖親鸞聖人のご命日である毎月28日と自分の両親、祖父母と兄の命日には一日精進日となります。今ではまったく抵抗なく精進している私ですが、小学校や学生の頃は精進日となると、食欲がわかずに、「どうしてこんなことをするのだろう」と疑問に思ったものでした。
 そんな私にとって今でも忘れることの出来ない思い出があります。それは高校1年生の12月に祖父が亡くなり、その日から数えて四十九日間精進日が続いたのです。当然のことながら正月のご馳走なども一切ありませんでした。当時の私は、一日の精進日でさえため息をつきながら食卓に向かっていたくらいでしたから、ましてそれが一ヵ月半ほど続くということは考えただけでもうんざりしてしまうようなことでした。しかし、その一方で、幼い頃から孫である自分を心から可愛がってくれた祖父に対する思いから、肉や魚を口にしてしまうことは、そんな祖父に対して申し訳がないという気持ちから最後まで精進を通すことが出来ました。
 かつては私が住んでいる地域でも、朝精進と言って亡くなった両親の命日などは精進している家庭が結構あったということを聞きますが、現在ではだいぶ少なくなったようです。皆さんがお住まいの地域ではいかがでしょうか。
 人が亡くなられた日のことを「命日」といいますが、その意味とは、ただ単に大切な人が亡くなった日、命を終えた日というだけではなく、「いのちについて考えてみる日」として私は理解しています。私たちはともすると、日常生活の中に埋没してしまうあまり、生きているという実感さえ感じられないままに日々の生活を送ってはいないでしょうか。
 この度の宗祖親鸞聖人750回御遠忌では「今、いのちがあなたを生きている」というテーマが設けられました。私の中で生きているこのいのちとは、どこから来て、どういうつながりを持ったいのちであるのか。そして、そのいのちはどこへいこうとしているいのちなのでしょうか。そのことを問う最も身近な場面こそが、大切な人の死という事実であり、その人の命日ということなのではないでしょうか。
 そんな命日を「精進日」として非日常の生活を送ることにより、亡き人を思い、亡き人のいのちを通して、自らのいのちについて考えてみてはいかがでしょうか。必ずしも肉や魚を口にしないまでも、たとえば、命日には家族が集う食卓で、亡き人の好物を食べながら思い出話を語り合い、お偲びする。そんな精進日もあっていいと私は思います。
 私の周りにも「今どき精進日なんて時代ではない」と言われる方もいますが、精進日の内容はともかくとしても、今の時代だからこそ、なおさら精進日を設けることに意義があるように思われてなりません。皆さんは、どのようにお考えになられたでしょうか。

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