ラジオ放送「東本願寺の時間」

片山 寛隆 (三重県 相願寺)
第1回 「今、いのちがあなたを生きている」 [2011.4.]音声を聞く

 おはようございます。
 戦後六十数年、高度経済成長と云う美名のもと、突っ走ってきて得たものは何であったのかと、今その時代の戦士であった団塊の世代と云われた人々のお話をお聞きすると、あのときに立ち止まって見なおすべきであったなあと云うことを聞くことがありました。それは突っ走ってきて、それでいいのかと云う問いが突き付けられたのが、あのバブルの崩壊であったと、そのときにはそのほころびた穴埋めにやっきとなり、あるいはその後もあのバブルの栄華を再びという夢に駆り立てられてしまったと云うことを聞かされました。確かにこの方が過去を振り返っておっしゃっていますが、誰も彼もそれを非難することは出来ません。みなそれぞれに一生懸命やってこられたのです。そしてそのときこの一生懸命に疑問を持つなんてありえません。
 でも現実には、「一生懸命にこどものため、家庭のためとやってきたのに、どうしてこどもがあんなこどもになってしまったのでしょう、また家族がバラバラになってしまったのか」というような嘆きの言葉を聞きます。
 皆さんも考えてみて下さい。ここに一人の人がいて、たとえば東京へ行くという仕事の目的を持って新幹線の乗り場を間違えたことに気付かず、着いた列車に乗り込んで九州の方に向かったとしたらどうなるのでしょうか。どんどん行きたい東京からは遠ざかってしまうことになります。
 一生懸命であったといいさえすれば、それが一番よいことだというように思っているけれども、もし方向を間違えて歩き出したとするならば、一生懸命であることは、逆に目的から遠ざかること、幸せから遠ざかることになります。
 こどもを持つ親ならば、昔も今も変わらず「どうぞ、この子が幸せでありますように」と申します。しかし、昔の親たちは、そのこどもに対して「こどもが将来、世間様のお役に立つようになれますように」とか謙虚な親は「せめてこの子が世間のごやっかいになりませんように」と、申しました。云ってみれば、幸せになる原因を考えて育てました。今はどうでしょうか、原因を考えないで、結果だけを願うということになってしまっているのではないでしょうか。
 この原因と結果ということを、教えて下さったのがお釈迦さまなのです。因果というように云っています。世間では因果というと、自分のよくない行いによって悪いことがおこることのように思われているかもしれませんが、そうではありません。原因があって結果がある。原因がなければ結果もでてこない。これがお釈迦さまの教えです。この因果という関係をちゃんと知っていることが知恵があるということです。
 たとえば、私にも孫がいるのですが、その孫が「おぎゃあおぎゃあ」と泣いていますと、赤ん坊の傍に行って「どうしたの、何か機嫌が悪いの、あらあらおしっこが出ているのかな」と云って、指を横の方から、おしめの中に入れてみる。そして「おしっこが出て気持ちが悪いから泣いているんだね。ごめんね、すぐかえてあげますね」と云って、おこたに暖めてあったおしめを取出して、それも今風のものでなく、お婆ちゃんが着古して繊維がやわらかくなった古いユカタをおしめに縫ってというような、そういう肌触りのいい、あったまったおしめに取りかえてやる。そして「ああ、気持ち良くなったね、ああ、あったかいあったかいおしめで気持ちいいでしょう、さあのびのびしようね」といって、足ものばしてあげる。
 これはどういうことでしょう、まだ、何も、言葉もわからないこどもですけれども、こうやって、こどもに話し掛けている言葉というのは、すべてこどもの状態に合わせた言葉です。そのこどもは、のびのびということはどういうことなのか、気持ち悪いということはどういうことなのか、気持ちいいことがどんなことなのかということをチャンと学んでいるのです。

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