おはようございます。
近年、葬儀のあり方についてさまざまな形で取り上げられ、従来の葬儀のありようとは異なった形で、葬儀を執り行われることが多くなってきたようにも思われます。さまざまな事情の中で葬儀のあり方が変化してきたということもあろうかと思います。しかし、葬儀の本来の意味を確認しないままに変化していくのには、何か危ういものがあるように感じられます。今朝は仏教がいのちについてどのように考えているのかを確かめることで、葬儀に代表される法事の意義について考えてみたいと思います。さて、私たちが人生と言っているそのことを、仏教では生死と教えられています。生死とは、生きるという字と死ぬという字を書き、生と死、それをひとつにして生死といいます。
私たちはその生死の生の方だけで人生を考える。お互いに都合のよいことは好きで、都合の悪いことは嫌い、それで死については見ないように触れないようにといった感じで生きていますし、人間の営みも、死は向こうに押しやり、生の面を拡大し延ばすことに全力をあげて歩んできたような面があります。そこに都合よく生きる意味を見いだそうとしていますが、しかし、人生は死と生を分けて、生の方だけを選り好みできるものではありません。人生は生死なのだと教えて下さっているのが仏教なのです。誕生日があれば、命日がある。生と死が別々にあるのではない、生死なのだ、死もいのちなのだということ、いのちの事実なのだということを教えられているのが仏教なのです。
そして、そこに生きるということはどういうことなのか、ということが問われてきます。都合の好いことばかりであるはずがない人生にとって、生きる喜びとはどういうことでしょうか。
生死という言葉は、生死無常、生死流転、生死出離などと仏教用語として出てきます。生死無常は、仏教の旗印と言われます言葉に諸行無常という言葉があります、それと同じこころを示す言葉であります。
仏教は、お釈迦さまがおよそ人間であるならば、どんな人間であっても避けることが出来ない、必ず直面する人間の事実を直視し、人間の現実とは何かということを冷徹なまでに追求して人生を明らかにされた教えです。そのことを
諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静
とあり、仏教学者の中村元氏は全てのつくられたものは無常、全ての法は非我である、全てのつくられたものは苦しみである、それらの静まるのが安楽であると訳されれています。
諸行無常とは、如何なるものも、何時までもそのままというものは一つもない。諸法無我とは、私の思うようになるものは一つもない、髪の毛一すじどうすることも出来ないということです。あらゆる存在、現象をなりたたせている法則であります。人間の善し悪しの都合を越えた事実であります。
亡くなった方をご縁として法事を営むことが行なわれます。お亡くなりになった方は、自分の生涯を通して生きるとはどういう事かということを、身をもって知らしていて下さるわけです。人生とは、自分の都合のよいように進むものではないぞ、と。私も都合のいいことが好きで、都合の悪いことは嫌いという思いで生きてきたけれども、そうは思ってもいやおうなくすべてを受け入れなければならないという事実があります。死を迎えるということもそうでしょう。だから、どんな事があっても、生きるとはこういうことだと、夢を見るのではなくして、この人生の事実を踏まえながら、どんな中にも絶望せずに、しかも人間に生まれて良かったという様なものを見開いて、生き死ぬ身になって欲しいということを亡くなった方から聞き取っていく場こそが法事であり、法事の意義はそのこと一つであると言えることです。