ラジオ放送「東本願寺の時間」

片山 寛隆 (三重県 相願寺)
第2回 「今、いのちがあなたを生きている」 [2011.4.]音声を聞く

 おはようございます。
 今は故人となられた先輩のお一人のお寺が北陸の松任というところにあります。そのお寺では毎年決まって宝物を虫干しをなさるという行事がありました。その中に「幽霊」の掛け軸が宝物として大切にされているということをお聞きし、一度お邪魔させて頂いたとき拝見させていただきました。お寺に「幽霊」の絵とは?という思いもあって興味関心を抱きながら現物を目の前にしたとき、やはり今この放送をお聞きの皆様が思い想像された「幽霊」の描かれた掛け軸でありました。
 その軸の絵は髪が洗い晒しで長く、手が垂れ下がっていて、足が描かれてないものでありました。よく昔から映画や雑誌で目にしていたものでした。なぜその軸が宝物としてこのお寺で大切にされてきたのか、有名な日本画家の方が描いた幽霊の掛け軸であろうとも、お寺には不釣り合いなものという感がしていたところ、その先輩が「この幽霊こそ、仏教の教えそのものだ」とおっしゃいました。
 今日ホラーブームとかで恐いもの見たさを煽って、いろんな剌激のある映画等が私たちのどきどき感を満足させてくれますが、この「幽霊」はそこに止まらない仏教の教えが背景にあるということを確かめたいものです。
 今でこそ髪の毛についてはそんなに問題に致しませんが、昔の女性にとっては「髪は女のいのち」だといい、髪について大切にされた時代がありました。また「うしろ髪引かれる思い」というような言葉もあります。髪が長くなければ「うしろ髪」ということもありません。ではこの「うしろ髪引かれる思い」とはどのような思いなのか、過ぎ去ったこと、過去のことを振り返りながら後悔し、「もしあのとき熟慮すればこんな結果にはならなかったのに」といろんな毎日の生活の中で思い愚痴を言い、取り返しがつかないのに過去に執着している生活を送っています。また「幽霊」の手が垂れているのは、将来、未来に対する不安からくる取り越し苦労の形を表しています。私たちの老後は安心できるのだろうか、子供の未来はどうなんだろうかと、あれもこれも心配ばかりして元気がない自分になっているのではないでしょうか。
 この「幽霊」の絵とは、過去に執着し、未来に対して取り越し苦労ばかりで今生きて在る現在に足が着いてない生き方を「幽霊」と教えられていることでありましょう。
 科学的な技術や考え方が大いに広まっている現代ですから、幽霊を見たことがありますか?という問いに対して、私たちは、何を馬鹿なことを言っているのだと切り捨ててしまうかもしれません。しかし、この掛け軸の説明にあるように、過去にとらわれ、将来には不安を感じ、今ということを失ったまま生きている者を幽霊というのならば、その幽霊というのは、私たちが、毎朝洗顔するたびに目にしている鏡に映った私自身の姿ではないでしょうか。「幽霊の掛け軸」というおどろおどろしいものでありながら、私のあり方を示してくれる。だからこそ、お寺で宝物として大事にされてきたのでしょう。
 今を生きるとは、自分の中にある「幽霊」からの解放以外のなにものでもないことを一つ具体的な私たちの生活を通して考えたいものです。

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