ラジオ放送「東本願寺の時間」

片山 寛隆 (三重県 相願寺)
第4回 「今、いのちがあなたを生きている」 [2011.4.]音声を聞く

 おはようございます。
 どんな人であっても、今日はどうぞ災難が降り掛かりますように、などということは思わないでしょう。誰もが今日一日、今年一年、そして私の一生も無事であるようにと幸せを祈って生きているのが人間ですから、そんなことを仏壇の前で思ってはいけませんとは言えません。けれどもそういうふうにお参りしお願いしたら、都合良くして下さる方が、この仏壇の中にいらっしゃると思うと、一寸違うのです。
 毎日の生活の中で、今日一日無事でありますようにとか、今日はこどもが受験に行きましたから、どうぞ受かります様にと、こう思ってお参りするということがあるでしょう。そんなことを思ってはならないとは言えませんが、そういう私をもう一度照らし返して下さるのが、仏さまであると、私はうけとめています。願いを叶えて貰えるようなのとは一寸違うのです。
 仏様を夢を叶える方、願いを聞き届けてくださる方ということで、人間の欲望の数だけ神様や仏様を造っていく構造を人間はもっているものです。
 では、その神様はどのような形で作られているかと言うと、火事が恐ろしいから防災の神様、出産のときには安産の神様等我々の都合のよい想いが満たされるように作るのです。そうでしょう。昔車社会でなかった時代に交通安全の神様なんてなかった。もっと言えば車の運転免許を取って車を買ってから交通安全の神様が必要になってくる。人間には都合良くなりたい、災いを除いて福になりたいという心があります。その心がお祈りやお守りで願いをかなえようとする宗教を造っていくのです。だから神様を拝んでいる、仏様を拝んでいると言っているけれども、実は自分の都合の良いようになりたいということなのです。それを明らかにすれば結局は欲望を拝んでいるということになるのです。
 仏様に手を合わせているといっているけれども、ご利益が欲しい、自分の都合のよくなるようにと手をあわせているのにすぎません。仏様のご利益とは、そういうことになっている私の有り様を教えて下さることです。そしてその私を目を覚まさせてくださるはたらきに遇うということが、仏様に遇うということなのです。
 私たちお念仏の教えに生きられた先人のことばに「神仏を頼めば神仏に苦しめられる」というのがあります。卑近なたとえを申せば、我が子を自分の思うようにしようと思っても、我が子は思うようになりません。それで、こんな子を生んだ覚えはないと言わなければなりません。友達だって、友達を思う様にしようとして思うようにならなかったら、あんな人だとは知らなかったと言って苦しまなければなりません。今度は、我が身を頼めば、いつまでも健康でということはありませんので、苦しまなければなりません。また先人は「満足を外物・他人に求むるときは、その奴隷となる」と教えて下さっています。この"がいぶつ"はそとのものと書きます。つまり、人であれ物であれ、自分の外側にあるもので、満足を得ようとするならば、それに縛られてしまうということです。そうでしょう、たとえば金を使っていると言いますが、有るといって威張ってみたり、無いといって僻んでみたり、威張ったり僻んだりで金に縛られています。金に使われているという形になるでしょう。全く自分を見失っているのです。親鸞聖人は、鬼神とは、人間を生きる屍にしてしまうと教えて下さいます。真宗の教えとは、その鬼神に寄り掛かる自分を目覚めさせて下さるものです。

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