ラジオ放送「東本願寺の時間」

片山 寛隆 (三重県 相願寺)
第6回 「今、いのちがあなたを生きている」 [2011.4.]音声を聞く

 おはようございます。
 仏さまというのは、目覚めた人という意味です。何に覚めたかと言いますと法に目が覚めた、もっと正確に言えば、法に眼を開かれたということです。その開かれた法とは、「色は匂えど散りぬるを」という歌がありますが、それは「諸行無常」ということです。いくら綺麗に花が咲いていても、何時までも咲いていることはない。必ず散るときがある。それは花だけでなく、どんなものも無常である、「有為の奥山今日越えて、浅き夢見し酔ひもせず」と続いていますが、我々は幸せの夢を見ている訳です。思うようになれたら良いが、都合良く生きることが出来たらいいがという夢を見ているのです。それを夢だというのです。というのは、人生は都合ではないからです。それを、思うようになりたいという形で生きているのです。それが「浅き夢」であり、この事実に眼を覚ました方を覚者というのです。亡くなった人は、その事実を示していてくれる訳です。
 私たちの毎日の在り方は、こどもが一人前になるまでは頑張らなければとか、独り立ちが出来るまでは親は元気でいなければ、あるいは、苦労した親だからせめて老後は楽をさせてやりたいという思いがあっても、そうはいかないのが現実であり、私たちの都合の様にはいきません。こどもが生まれたらそのこどもに対して夢を持つものです。ところがそのこどもが交通事故で亡くなるということもあります。ですから、日々の生活が自分の思うようになっているから幸せだというような幸せのあり方は、少しのつまずきでなくなってしまう夢のようなものです。だから、ただ幸せになって欲しいというだけでは言い尽せません、どれだけ都合の悪い状態になっても、これが生きるということだと、人生の意義に頷いて、そして、人間に生まれてよかったというものを見付けなければなりません。そうしなければ生まれた甲斐はないのだと思います。
 そういうことを、これが人生だぞと言って、大なり小なりいろんな不都合な事を乗り越えて亡くなられた人は、私たちにこういうのが人生だと示されているのです。それは、最初に申しました諸行無常という仏様が目覚められた法です。先立った人をご縁として、法に遇わせて頂くという意味がそこにある訳です。
 仏教は、都合よく生きられたら幸せだという夢から覚める教えです。ところが今日、ともすると宗教が夢を叶える教えみたいになっている面があります。つまり、自分の都合をよくして貰うというものです。親鸞聖人の教えに生きるものにとっては、商売繁盛のためにおまいりする。病気が治るように、あるいは災いが去って、福がくるようにとお祈りするというのは、自分の都合のよいように生きたいという夢をかなえる教えです。その夢を叶える教えを、親鸞聖人は「鬼神の教え」と言っておられます。
 つまり、夢を叶える教えです。人間は都合のいいのが好きです。それでこちらがお祈りしたり、お願いしたりすると、都合よくして下さるという存在にひかれるものです。福は内、鬼は外というのも、それなのです。都合悪いことはどこかに行って、福だけが舞い込んで来るようにと、何やら私たちにそういう事をして下さるお方がいらっしゃると、それを信仰する。それが親鸞聖人がいわれた「鬼神」なのです。夢を叶える教えです。仏様の教えは、その夢から覚める教えです。人生は都合ではない、思うようになるというような夢、何とかすれば都合よくなるだろうという夢、その夢から覚めなければ、この人生は渡れないぞと、人生というのはそういうものでないのだと、先立った人は示しているのです。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回