ラジオ放送「東本願寺の時間」

海 法龍 (東京都 長願寺)
第1回 照らされて知る我が身 その1 [2011.5.]音声を聞く

 おはようございます。
 宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」の元、日常生活の中でお念仏の教えに気付かせていただいたことをお話しいたします。
 小学生のころ、父が雑種の茶色い小犬を貰ってきました。私は「チビ」という名前をつけて、その犬と遊んだり、散歩したりしながら過ごす時間が、当時の私にとって、本当に楽しいひとときでした。ある日のこと、チビの姿が見当たりません。一生懸命、家の周りや近所を探したのですが、どうしても見つかりません。3日後、隣の家の倉庫で死んでいるのが発見されました。硬直化し変わり果てた「チビ」がそこにいました。あまりにも痛ましい姿に、言葉を失い、涙が止まりませんでした。家の裏にチビを埋めて、木の札に「南無阿弥陀仏」と、父に書いてもらい、お墓を造りました。でも、気持ちは、なかなか納まらず、私があんまり悲しんでいるので、その様子を見ていた近所のおじさんが、白い子犬をどこからか貰ってきてくれました。
 私は嬉しくて嬉しくて、「もう絶対、手離さないぞ」と心にそう誓いながら、その子犬を抱きしめました。また同じ「チビ」という名前にして、毎日、学校から飛んで帰って、そのチビと遊び、かわいいなあという思いで、私の心は満たされていました。
 ある日、私はチビが、私の後をついてきていることを知らずに、家の前の道路を横断したとき、後ろの方で、車の音がして、その瞬間に「キャイン」という声が聞こえました。「あっ」と思い、後ろを振り返ると、変わり果てたチビが、そこに横たわっていました。まだ死んでそんなに日も経っていないチビのお墓の隣に、またチビを埋め、同じようにお墓を造って、その前で幼かった私は号泣しました。そのとき「生き物は何時かは死ぬ」、そして「どんな死に方をするのかもわからない」と思い知らされました。何とも言えない喪失感に沈んだ毎日でした。
 そんなとき、原因不明の体の不調で入院することになりました。ひとり病院のベッドの上で、2匹の「チビ」のことを思っていました。死んだあの姿が思い出され、悲しみのなかで、「僕もこのまま死ぬのかな」「死んだらどうなるのかな」と、死に対する恐れが、じわりじわりと私の心を支配していくようでした。
 それから、ずいぶん時が経ちました。父や先輩や友人や縁ある方々のたくさんの死に触れ、その死を深い悲しみの中で悼みながらも、どこかで死を避け、恐れる心がいつもありました。そして、その恐れは、失うことへの恐れだったように思います。人生で得ることは喜ばしいのですが、失うことは嬉しいことではありません。肉親を失い、友を失い、若さを失い、健康を失い、大事にしているものも、そして形あるものも、何時かは必ず滅していきます。最後はこの肉体も命も失います。つまり「喪失」という避けられない事実の中を、私たちは生きているのです。
 仏教は、死を恐れ生に執着し、失うことを恐れている私そのものが、実は人間の存在の事実であると教えています。ならば、その事実を事実として受け容れていくことが、恐れの心を乗り越えていく道になっていくのでしょう。しかしながら、どんなことでも自分の事実として受け容れなければ、それにこしたことはありませんが、なかなかそれができない私たちがいます。親鸞聖人は仏教の教えを聞きとっていく中で、生老病死という道理を教えられても、その道理を受け容れられない自分自身の在り方に深く気づき、それが深い痛み、悲しみとなっていかれました。
 死という厳粛な事実から私たちの「生きるということ」に対する価値観が、足元から問われているように思います。死の自覚は、生に執着してやまない私自身の自覚でもあります。その自覚には愚かさの実感と、そこから生まれてくる心の痛みがあります。それは親鸞聖人の教えに出遇うことによって開かれてくる世界でもあります。

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