ラジオ放送「東本願寺の時間」

海 法龍 (東京都 長願寺)
第3回 照らされて知る我が身 その3 [2011.5.]音声を聞く

 おはようございます。
 宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」の元、日常生活の中でお念仏の教えに気付かせていただいたことをお話しいたします。
 先日、学生時代に住んでいた街に、たまたま立ち寄ることがありました。そのころ住んでいたアパ一トの近くをとおりかかった時、その当時あった病院がマンションになっていました。すっかり様変わりしたその場所に佇みながら、学生時代の苦い思い出が私の心の中を巡っていました。そしてその苦さの中で「罪悪深重」という親鸞聖人の「罪深く悪重い私たち」のお言葉が、あらためて私自身に響いてきたのです。
 初夏の新緑の季節でした。私は住んでいたアパ一トの階段から足を踏み外し、首の付け根を地面に強打してしまいました。その時は何でもなかったのですが、時間が経つにつれて、だんだん打った首のところが痛くなってきたのです。それで近くにあった外科病院で診察をしてもらいました。「軽い鞭打ち症です。でも神経に変な反応があるので、しばらくようすを診させてください」ということで、入院することになったのです。
 病室は6人部屋で、そこに入院しているのは、私を含めて二人だけ。向かい側のベッドの方に挨拶をしようとした時、その方から「こんにちは」と声がかかりました。私も「こんにちは」と挨拶をして顔を上げた時、私は「あっ」と、驚いてその場に立ち尽くしてしまいました。20歳代の男性です。首から下の全身不随で、起き上がることもできず、ずっと寝たきり状態ということでした。しばらくして、足を引きずりながら50歳代の女性が病室に入ってきました。「私はこの子の母親なの」と自己紹介されました。我が子の付き添いとして、このベッドの下で寝泊まりしているということでした。
 その親子は、私によく話しかけてくれました。中学を卒業して就職。工事現場で働いていた時、足場から足を踏み外し5メートル下に、真っ逆さまに頭から落ちて、首を骨折、脊髄を損傷。病院に運ばれて一命は取り留めたものの、全身不随の状態になってしまったということでした。「兄ちゃんはよかったなあ、俺と同じようにならなくてなあ」と私に気づかいながら、いろんな話を笑顔でしてくれました。母親は小児マヒの為に片足が不自由になっているということもわかりました。そしてその親子には暗さは感じられませんでした。看護師さんたちにもユーモアたっぷりの会話で、いつも笑わせていました。
 私も毎日楽しく話をすることができました。だけど重たいものも感じていました。それは決して自分の外へ出してはいけないものでした。「私は首の軽い打撲で今ここにいる。目の前でベッドの上で話をしている人は、首の損傷で寝たっきり、多分二度とその体が回復することはない。一歩間違えれば、自分もああなっていたかもしれない。ああならなくて本当に良かった」。自分の状態を、その人と較べて妙に安堵している私がいたのです。そしてそのお母さんが、いつも私のベッドの周りを雑巾掛けをして掃除してくださるのです。不自由な体で、できることを一生懸命しておられました。
 入院から5日後、特に異常もなく、首の鞭打ち状態もすっかり良くなり、私はその病院を退院しました。最後にその親子に親切にしてもらったお礼を言い「この病院の近くに住んでいるから、必ず遊びにきますからね」と言って別れました。
 そして私は、その親子を二度と訪ねることはありませんでした。何故か。それはその親子に会うのが恐かったからです。「全身不随の、一生ずっと、天井だけを見て生きていく我が子を、小児マヒのお母さんが看護する」。そんな姿に接するのが辛かったのです。目の前にあるのは、もし、わたしがそのような立場であったとしたら「絶望」でしょう。でもあの親子には明るさがありました。それは周りに「希望」を与えるものでした。しかし、あのような状況が自分だったらと思うと、ただただ恐ろしさで、気持ちの行き場がなくなってしまうのです。「なんて薄情で、なんて冷たい自分なんだろう。あれだけ親切にしてもらったのに、でも会いに行けなかった、いや、行かなかった」のが私だったのです。
 学生時代の苦い思い出です。親鸞聖人の「罪悪深重」というお言葉が、身に沁みるのです。「本当に私こそが罪深く悪重い存在だ」と強く思い知らされた青春の出来事でした。

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