ラジオ放送「東本願寺の時間」

海 法龍 (東京都 長願寺)
第6回 照らされて知る我が身 その6 [2011.5.]音声を聞く

 おはようございます。
 宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」の元、日常生活の中でお念仏の教えに気付かせていただいたことをお話しいたします。
 「いのち」は生きているだけが、「いのち」ではありません。死していくこともまた、厳粛な「いのち」の営みであります。絵本『いのちの時間』には、次のような言葉が最後に記されています。
 長くても短くても
 いのちの時間にかわりはない
 はじまりがあっておわりがあり
 その間には
 "生きてる時間"がみちている。
 (新教出版社)
 素晴らしい言葉です。この言葉の通りだと思います。いのちの道理からすれば、その通りなのです。でも私たちの現実はそれだけでは済まされないものを持っています。
 先日、ある年若い方が亡くなりました。ご両親にとって一人息子さんになります。枕元での読経のためにお伺いしたとき、その悲しみの深さに圧倒され、自分に置き換えることの恐ろしさに、想像を絶するものがありました。
 「なぜ、死ななければならないんですか、信じられない、何も悪いことはしてこなかったのに、なんでこんな目にあわなければならないんですか」というお母さんの重い問い掛けに、ただただ沈黙するだけの私がいました。
 葬儀会場の都合で少し日をおいてのお通夜となりました。そのお通夜の前の日の新聞の投書欄に、先程の絵本「いのちの時間」が紹介されていました。最後の言葉が胸に響き、お通夜のお勤めの後のお話の時に紹介させてもらったのです。お勤めが終わったあと、その話を聞いてくださった参列者のお一人が、「ものすごくいい言葉ですね。彼はあまりにも短い人生だったけど、ご両親と満ちたいのちの時間を生きたんですよね」と感想を語ってくださいました。そして、最後に帰りがけにお母さんと少しお話をしました。お母さんは「住職さんのお話で紹介してくださった言葉はよくわかります。いのちの道理とおっしゃいました。その通りだと思います。でも私は納得ができないんです。なぜ私の一人息子がこんな形で死ななければならないんですか、私には理解ができないんです」と悲しみの涙のなかで、その理不尽さを訴えておられました。
 私はその時、当事者の重さを実感しました。道理を道理として受け止めていく、というところに、どこか人ごとのようなものがあるのかもしれません。自分の身に降りかかって、初めて出てくる本音。
 私たちは普段は「生きてる時間」が自分にとって「より良き時間」でなければならないと、何の疑いも持たずに、そう思って生きています。「より良き」と言う価値観は、都合の悪いことは起きてこないようにという心でもあります。つまり苦しいことや悲しいことは、この身の上に絶対に起きて欲しくないと、私たちはいつも思って生きているのです。しかし、いつかは向き合わなければならない時が来ます。その時私たちの「より良き時間」はもろくも崩れていくことになります。その事実を受け止めて行くことの難しさがあるのです。いや受け止めきれない、納得できないというのが私たちの本音なのです。もちろん死という事実だけではありません。老い、病い、人間関係の煩わしさや経済的な問題も同時に抱えています。それらを一人一人が背負いながら生きているのが、私たちの生活なのでしょう。だから、本音が私自身であり、その本音から離れることもできない私がいることになります。時にはその本普は、都合の惑いことは排除していこうとする暴力の源にもなっているのです。
 私はこれから、そのご夫婦と一緒に、親鸞聖人の「南無阿弥陀仏」の教えをとおして、私たちの「いのちの時間」を見つめていく確かな歩みをしていきたいと思っています。

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