ラジオ放送「東本願寺の時間」

海 法龍 (東京都 長願寺)
第5回 照らされて知る我が身 その5 [2011.5.]音声を聞く

 おはようございます。
 宗祖親鸞聖人750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」の元、日常生活の中でお念仏の教えに気付かせていただいたことをお話しいたします。
 「菊池寛」の小説に『極楽』という短編があります。極楽というのは極楽浄土のことです。人間は死んだらどこへ行くのか。浄土教仏教に限らず、一般的に死んだら極楽という、素晴らしい世界として浄土がイメージされてきました。善いことすれば極楽、悪いことをすれば地獄という表現で受け止められてきたのです。そういう状況の中で、この短編は極楽浄土を死後の世界としてきた仏教に対する「菊池寛」からの批判の書でもあり、本当の仏教の教え、浄土とは何を意味しているのかという、問題提起でもありました。
 この短編『極楽』には、お寺参りに励み、念仏の信仰の篤い一人の老女「おかん」が死した後、極楽世界へいきます。そこは『仏説阿弥陀経』というお経の中で表現されている極楽浄土の世界が、そのままありました。何もかもが素晴らしく、「おかん」は「ほんとうに極楽じゃ。針で突いたほどの苦しみもない」と喜び、先に亡くなった夫の「宗兵衛」にも再会し、平穏な日々を過ごしていきます。
 しかし、あまりにも平穏な日々は、だんだんと退屈となって、耐えられなくなってきます。「宗兵衛」に何回も同じことを聞きます。「いつまでここにいるんじゃろ」「10年20年なりいると、別の世界へいけるじゃろ」と。そして「宗兵衛」はその度に「何時までも、何時までも、何時までもじゃ」「極楽より外に行くところがあるかい」と答えます。
 そして「おかん」は、ある時ふと気がついたように、「地獄はどんな所かしらん」と聞きます。すると「宗兵衛」は嬉々として、「恐ろしいかも知れん。が、ここほど退屈はしないだろう」と答え、その後、極楽の人たちは、ただひとつの退屈紛らわしとして、自分たちがいけなかった地獄を想像し、そして地獄について語り合った、ということで結ばれています。
 こんな極楽には「本当の満足はなく、不平不満しか生まない、人間の救いとはならない」。死んでから良いところへ行って楽をしたいというのなら、人間の欲望の投影でしかなくなる。極楽浄土とは生きている人間の苦悩に、本当に応える世界なのではないか、ということを、暗に、この短編で「菊池寛」は問いかけているのではないかと思います。
 では、極楽とは何か。それは、仏陀が出遇った精神世界を言葉にして表しているのです。だから教えの言葉であります。そして、その世界はなぜ美しく素晴らしい世界として表現されているのか、それは清浄なる国土だから浄土、清浄の「浄」と国土の「土」で浄土です。その世界のことを「鏡の如し」といわれています。清らかな世界には、ものを映し出す、鏡のはたらきがあるということでしょう。私たちがお経のお言葉に触れ、そのお話をお寺などで聞かせていただく時に、私の姿がそこに映し出され、私の価値観や日ごろの心が明らかになってくる時、私の日暮らしが、けっして清らかでないことが、逆に知らされてくるのです。お経には「濁世」(濁りの世界=地獄)という言葉で、私たちと私たちの世界を表現されています。そう考えると、浄土という世界は、私たちに自分の本当の姿を知らせるために、譬えとして表現された世界なのです。
 死後の世界があるとかないとか、だれにもわかりません。またあるとかないとか、良いとか悪いとかに、とらわれている私たちがいます。その発想そのものが人間の欲望そのものなのでしょう。だから私の心も私たちの社会も濁っていると、指摘してくるのでしょう。生きているかぎり欲望もなくなりません。だから濁りでしかない私たちであることを教えられ頷いていくところに、開き直りでない、あやまりを感ずる心をいただくのだと思います。

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