宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌、のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を通して、お話しさせていただきます。
今回も、テーマである「今いのちがあなたを生きている」を通して、親鸞聖人の「本願念仏の教えに生きられた」ご生涯にふれながら、現在の私たちの生活を確かめていきたいと思います。第3回目は、仏法を広める際に受ける迫害、法難を通して親鸞聖人が、どう受けとめていかれたのかと云う事です。
親鸞聖人29歳のとき、それまで20年修行してきた比叡山を下り、吉水の法然上人に出遇い、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」「ただ念仏して阿弥陀仏にたすけられなさい」と、法然上人からお聞きした、それこそが仏からの呼びかけであったといただかれたのです。「雑行を棄てて本願に帰す」つまり「仏教の教いを求めて、また得るためにしてきた様々な努力をすべてやめ、本願に生かされている自分に目覚める事ができた」と云う事であり、賢者になって往生するのではなく「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」つまり「浄土の教えを学ぶ人は、自分が愚かな身としてしか生きられない事に目覚め、浄土に生まれ生きる者になる」という誰もが歩んで行ける仏道との出遇いでした。
このお念仏の教えはあらゆる人に救いをひらき、ひろまって行く事になりました。しかし、このような専修念仏の教え、お念仏の教えが盛んになる事は、仏教界の高い地位にある者だけでなく、社会の支配層の人々にとっても好ましくない出来事でした。善を積み、良い行いをしなければこの世の幸福も宗教的救済も成り立たないのだと云う、社会通念に対して、「念仏の教え」は善人悪人間わず一切平等に救われるとなれば、このまま放置すると宗教界ばかりか社会の秩序も破壊する事につながると危険視されたのです。
そのような理由で既成の仏教教団の反感をかうこととなり、1207(承元元)年ついに専修念仏を禁止する命令が下され、法然上人の弟子四人が死罪、法然上人を含め8人が流罪となりました。法然上人は土佐の国(高知県)、親鸞聖人は越後の国(新潟県)へと流されるという、死罪に次ぐ、厳しい処罰が下されました。
しかし、親鸞聖人はこの事を処罰や事件としてではなく「法難」つまり「真実の法が否定された」と受けとめられたのです。その受けとめは、もはや弾圧された被害者でも、また単に罪人でもありません。真実の法が否定されたというところから、あらためて真実の法を明らかにしていく、使命というものが生まれたのです。それは、選択本願の教えに生きる者の新たな展開になる縁となりました。具体的には親鸞聖人は、『教行信証』の製作を思い立たれたのだと思います。
この法難という受けとめは、私たちに何を教えて下さっているか。仏法には「雑会」と云う言葉が教えられます、この世の中は何でも起きてくる処という意味です。
想定外の事が、私の都合のいい事、悪い事、理不尽な事も起こり得ると云う事です。しかし、それをどう受けとめて生きていくのか。ふりかかった出来事や事例を問うと云う事もありますが、困っているその自分自身をどう生きるのか。と云う事があります。自暴自棄になるか、負荷って生きる者となるのか。
また、弾圧者に対し、親鸞聖人はどう向きあったのでしょう。対決姿勢をむき出しではなかったことです。お手紙を見ますと、法然上人から聞いた、弾圧する人をも念仏の教えによってたすけてあげなさい。という言葉を紹介されています。念仏者の悲嘆は弾圧する者を包み、一切のものが、念仏の教えによって救われていく存在であると見ています。振り返れば法然上人ご自身の出家の動機は、「敵を恨んで仇を討ってはいけない。出家し、すべての人が、ともに助け合い生きる事のできる道を求めよ」という父の遺言にあると伝えられます。
以前、先生にお聞きした言葉が思い出されます。「大切な方とのお別れはつらく悲しい、しかし、それ以上に悲しいのは、そのお別れ以上に新たな出遇いがない事は、もっと悲しい」親鸞聖人は、6年間ともに歩まれた先生法然上人と、それぞれ遠い土地に流罪になって、ひきはなされましたが、いよいよ、本願念仏の教えとの出遇いをいただいて行かれました。