ラジオ放送「東本願寺の時間」

福嶌 龍徳 (熊本県 玄徳寺)
第4回 ともなるいのちを生きる音声を聞く

 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を通して、親鸞聖人の「本願念仏の教えに生きられた」ご生涯にふれながら、現在の私たちの生活を確かめていきたいと思います。今回は、親鸞聖人の越後での生活を通して、たずねてみたいと思います。
 平安から鎌倉時代という時代の変わり目に、生を受けられた親鸞聖人は、9歳で出家得度し僧侶となり20年にわたり比叡山において修行をされました。しかし、懸命な修行にも関わらず、どれだけ教えを学んでも、さとりを開こうと努力しても、苦しみや悩み迷いが深まるばかりでした。ついに吉水、現在の京都東山に草庵をかまえていた、法然上人のもとに教えをたずねられました。そしてその専修念仏の教え、専ら「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の御名をとなえよ。さとりを開くために煩悩は妨げにならない、という教えに出遇った親鸞聖人は、それまでの自らの努力と頑張りを、唯一頼りとして生きてきたあり方を棄てて、本願念仏の教えに帰られたのであります。
 この誰でもが歩んで行ける、お念仏を申すと云う専修念仏の教えは、やがて、おおくの人々にひろまり、老若男女のともがらが、吉水の法然上人のもとに集われたと伝えられます。
 しかし、この法然上人の教えである「ただ念仏」と「さとりを開くために煩悩は妨げにならない」と云う事が、「煩悩をなくしてさとりを開く」と云う伝統的な仏教の教えと相反するものであり、また、これまでの伝統的な仏教の教えを否定する門弟も現れるなどの行為に、奈良の興福寺からも非難が起き、抗議の文章が朝廷に出されたり、あるいは、悪いうわさが立った結果、ついに専修念仏を禁止する命令がくだり、門弟の処罰が出されました。1207年、承元の法難です。
 この承元の法難において、親鸞聖人は流罪に処せられています。遠流という死刑に次ぐ刑罰が親鸞聖人に科せられた事からも、念仏弾圧のはげしさを物語っています。
 流罪の地、越後での親鸞聖人の流人生活について、詳しいことはよくわかっていませんが、その当時の法律などを集めた書物である『延喜式』によると、自給自足の生活が求められたと云う事です。慣れぬ土地での生活は、まわりの方々の助けがなければ生きる事が出来なかった事でしょう。そして、流罪1~2年の聞に恵信尼さまとの結婚とともに、子どもも授かったのであります。肉食妻帯の生活で在ります。
 法然上人の残された文章などを集めた『和語燈録』の中に「この世は、お念仏できる様に生きなさい。(略)出家して、お念仏申すのが難しければ、結婚してお念仏申しなさい。結婚してお念仏申すのが難しければ、出家してお念仏申しなさい。」のというお言葉があります。親鸞聖人は先生である法然上人と出遇い「本願念仏の教え」との出遇いを確かめられ、また、深められた流罪での日々でした。それは、出家であろうと家庭生活であろうと、お念仏申す生き方を大切にするという一点で在りました。
 この越後での生活は4年間の赦免つまり流罪が許された後も、2年程留まり6年間、越後の人々とともにすごされました。
 遇縁存在と言うお言葉が、中国の善導大師にあります。つまり、その時々に遇った縁によって、在り方が決まる存在。親鸞聖人は越後の流罪を生きる我が身の問題と、京の都で知り得る以上、想定外の中を精一杯に生きる人々に出遇い、ともに生きられた。その事を「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」と親鸞聖人は名告られています。
 自らのいのちを保つために、他のいのちを奪わなくては生きていけない身の事実は、おのずと、「今、いのちがあなたを生きている」の呼びかけと重なり合います。
 曽我量深先生が言われる「いのちよりも大切なものが見つからない限り、人間はいのちを大切にしない」という教えを受けとめると、私自身「我が思いを大切にして」、結果「いのちを軽視」する在り方が問われる事です。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回